トレックY3で、旧水戸街道巡り
MTBトレックY3での、地元周辺(取手ー牛久)の旧水戸街道をご紹介いたします。
旧水戸街道は江戸時代に定められた五街道の脇街道で、千住を起点に水戸までの二十九里、江戸日本橋から千住までは、五街道の一つ日光街道を辿ります。
まずは、取手旧市街から藤代へ抜ける道です。左の写真は、旧水戸街道の取手宿、江戸方向を写しています。左下流方向ですぐに利根川に注ぐ相野谷川に架かっている橋、そのたもとにある道標です。水戸十八里と書かれています。裏側には江戸へ確か十三里と書かれていました。
右は「旧陸前浜街道」と書かれた杭です。この道は江戸時代は水戸街道、明治になってからは陸前浜街道と呼ばれていました。現水戸街道の国道6号は、この道のかなり西側を通っています。
藤代方向へ進むと、JR常磐線と交差します。踏切の名前は、「旧陸前浜街道踏切」となっています。特急”ときわ”が通過します。
常磐線はこの先、取手、藤代間で直流と交流が切り替わります。昔は切り替わりの時、車内灯が暗くなってモーターも止まり、惰性で通過しました。今は蓄電池を積んでいるためか、そのようなことはありません。
ちなみに何故直流から交流に切り替わるのか。それは茨城県 石岡市柿岡に地磁気観測所があって、1900年以前から、地球磁場の観測を続けています。鉄道の直流電流は、その観測値に影響を与えるため、石岡周辺の電気鉄道はすべて交流となっています。東京の秋葉原からつくばの学園まで運行されている”つくばエクスプレス”も秋葉原から守谷までは直流ですが、守谷からつくばまでは交流で運用されています。
常磐線の踏切を超えて、その後国道6号と交差し旧藤代宿に至ります。
旧藤代宿の角にある、木造の旧家です。今は呉服屋さんを営んでいます。
立派な家なので、当時は名主や村役などの家柄だったのかもしれません。
藤代宿に入って道はL字に曲がり、その辻の角に相馬神社があります。鎌倉時代以前からこの地を支配していた、相馬氏の神社です。
相馬氏は桓武平氏千葉氏の庶流で、千葉県我孫子市、茨城県取手市、守谷市一帯を支配していました。
ちなみに福島県の相馬市は、ここから移って行った相馬氏が住み着いた地域で、その名が地名になりました。
藤代旧市街の通りです。わずかに木造の古い家や、商店などが残っています。左の写真は、前の写真の旧家の表です。呉服屋さんです。よく、おばあさんが着ている昔からあるデザインの衣服が売られています。でも、お客さんの姿は、まったく見えません。
古い郵便ポストや防火水槽なども残っていて、昭和レトロの雰囲気です。しかし人通りはなく、閑散としています。
このポストに手紙を出しても、本当に配達してくれるのだろうか・・・
先へ進むとJR藤代駅前を通って、小貝川に突き当たります。右が小貝川の土手、左が国道6号に出ます。
Y字路を右へ進むと突き当りが小貝川で、そこで道は途切れてしまいます。江戸時代には、ここに文巻橋という名の木橋が架かっていました。
今は、この場所から少し上流側に、国道6号の現「文巻橋」が架かっています。
小貝川に架かる、国道6号の文巻橋です。江戸時代の橋の名前がつけられています。
車道と歩道が分かれています。上流側に細い歩道橋が架けられています。
雰囲気のある名前の橋です。
小貝川対岸に渡って先に続く旧水戸街道です。川の土手の上から撮りました。道は川で唐突に途切れていますが、対岸に渡ると水戸方向に続いています。
旧水戸街道を知らなければ、なぜこの道が川の土手に真っすぐ突き当たっているのか不思議に思われるでしょう。
先へ進むと、再び常磐線の踏切に出ます。車が写っていますが、ほとんど交通量はありません。
古くからある道、街道だったので、この区間の常磐線敷設時には既に国道は整備済みだったのですが、踏切を作って道の分断を避けたのでしょう。
ここは、関東鉄道竜ケ崎線の踏切です。竜ケ崎線は、常磐線の佐貫駅から入地駅を通って竜ケ崎駅まで3駅しかありません。
超ローカル線ですが、朝夕は通勤通学の利用客で混み合うようです。
東側の起点駅、竜ケ崎は古い街で水戸街道から潮来、鹿嶋方面に向かう潮来街道の最初の街で、屋号がついている商店が並んでいます。しかし人通りは少なく、賑わいはありません。
先へ進むとT字路に出ます。右は竜ケ崎市立馴柴小学校で、その角に道標があります。
T字路でぶつかったこの道は江戸初期の水戸街道で、右方向は利根川左岸の利根町布川、右岸の我孫子市布佐を経て江戸、東京に至ります。左が水戸方向です。
説明書きに「昔ここで道に迷う旅人が多くいたので、村の年寄が集まって道標を立てた。」とありました。
江戸初期、三代家光の頃までは、水戸街道は取手宿を通らず我孫子から利根川沿いを東に曲がって布佐に出て、そこから対岸の布川に渡り、そしてこのT字路に出てきます。当時、取手から藤代に至る道は、特に藤代付近は土地が低く、雨が降るとすぐに冠水しで安定した運用ができなかったためです。
先に進んで、若柴の大きな旧家です。若柴は佐貫と牛久の間にある集落ですが、昔は宿場だったそうです。今は、商店などは全くなくて人気のない農家などが並んでいるだけです。国道6号からは常磐線を挟んで東に離れていて、車の通行もほとんどありません。
旧街道は、現状では地域道路として利用されていることが多く、自動車が少なくて自転車で走るには、安全で快適です。沿道には古くからある家屋や石碑など、いろいろなものが発見できて楽しいです。自動車ではなく、自転車で通ると見えてくるものがあります。
先へ水戸方向に進むと、L字の曲がり角に金竜寺があります。何か寂れた、でも敷地の大きなお寺だなあ・・・と思って、失礼ながら中に入ってみたら、なんと鎌倉に攻め上った有名な新田義貞の墓がありました。
義貞は鎌倉幕府を攻め滅ぼした後、足利尊氏と対立し福井で討ち死にしています。その墓が巡り巡って、ここ茨城県の竜ケ崎金龍寺にあります。
こんな処にあるなんて、全く知りませんでした。たまたま寄ってみて発見、驚きです。ほんと、いろいろなものに出会います。
若柴町の星宮神社です。北斗七星(北極星)由来の神社で、「延長2年(924)、肥後の国八代郡八代の神社から分霊勧請して祀った」とあります。
旧街道沿いには、特に神社が多いです。このように、人通りや車の通りが全くないみち沿いに人気のない神社があるところは、昔からある街道筋です。
さらに民家のほとんどない林の中の道を進むと、国道6号と並行して走る常磐線の踏切に出ます。踏切を超えたところが、国道6号です。
踏切を渡って左斜め方向の道が旧水戸街道です。少し先が、旧市街牛久宿です。
旧牛久宿の街道沿いにある、明治天皇が東北地方行幸の時に宿泊された、お屋敷です。中の見学はできません。たぶん個人所有の家屋だと思います。
幕末、維新の時に東北諸藩は徳川幕府について薩摩、長州と戦い多くの悲劇が生まれました。東北諸藩は佐幕派(幕府を助ける)ではありますが、尊王(天皇を敬う)ですので、明治天皇はそのことを憂えて、戦って倒れた人たちの鎮魂のため東北に行幸されました。
街道沿いの牛久宿です。
今の牛久市街は、常磐線牛久駅を中心に国道6号沿いが賑わっています。
牛久には、水戸街道とは少し東に離れますが、電気ブラン、牛久ワインで有名な”牛久シャトー”があります。建物は国の重要文化財に指定されています。
右の道が旧水戸街道で、ここで左の国道6号と一緒になります。手前の方向が牛久市街で、牛久駅を経て荒川沖、土浦、さらに水戸へ向かいます。
今回は、ここまでとします。
以前にマウンテンバイクのトレックY3の紹介をしたので、今回はそのY3で地元周辺の旧水戸街道巡りを紹介しました。自転車での旧街道巡りが大好きで、他にもいろいろ調べてポタリングしています。また、紹介させていただきます。
いよいよ工房の話ではなくなってきましたが、修理しかけで放り出している時計やカメラがたくさんありますので、それも機会を見てまた修理報告させていただきます。
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