18歳のとき、史記の伯夷伝(はくいでん)を読み、学問に精をだすようになったそうですが、遊郭で遊ぶ際にも右に盃、左に本を持っていたと自ら語ったそうです。
御酒を助けましょうと、助け船をだすことを、非常にきらったそうです。酒の上でも、助けるという言葉を、武士として忌むべきこととしていたそうです。
大雪の中を旅するとき、暖まるからといって酒を飲まないようにと語っていたそうです。ひそかに飲んだ者は凍傷にかかったそうです。
今の日立市川尻浜でつくられた川尻肉醤(かわじりにくしょう)を、半年余り寝かせて水戸藩から将軍家に献上したそうですが、光圀も酒の肴として食していたようです。ちなみに肉醤は塩辛のことだそうです。
隠居後の西山荘では、強(し)い酒などはせずに、心のままに飲んだそうですが、それでも、普通の上戸たちはみな沈酔し、光圀は儼然としていたそうです。人は酒に飲まれ、公は酒を飲まれたとも書かれているそうです。