賴宣(よりのぶ 紀州藩初代)と頼房(水戸藩初代)の母は、万(養珠院)という徳川家康側室の女性だったそうです。同じ側室のおかち(梶、勝 英勝院)が生んだ、家康最後の子どもであった五女・市姫が4歳で死んだため、不憫に思った家康は頼房(鶴千代)などをおかちの養子としたそうです。万は熱心な日蓮宗信者で、久昌院(光圀の母)や菊姫(光圀の妹)の信仰に大きな影響を与えたようです。英勝院は、一番旨い物はとの問いに塩と答え、不味いものはと聞かれると塩だと答えたといった逸話を持つ聡明な人で、家康没後、鎌倉・英勝寺を建立したそうです。光圀が旅行した唯一の私的な旅は鎌倉・英勝寺へのお参りだったそうです。写真は水戸市立博物館で見た、英勝院の芦沢信重宛書状です。
森尚謙(しょうけん)は、佐々宗淳(さっさむねきよ)の紹介で水戸藩に出仕した儒者で、医学にも通じ、水戸で𠑊塾(げんじゅく 号も𠑊塾)を開いて経書・医学を講じたそうです。尚謙の母は佐久といい、身ごもると史伝を聞いて胎教に努めたそうです。尚謙は、6歳で千字文、8歳で四書、11歳で五経を習ったそうですが、これらはすべて佐久によるものと言われているそうです。一族の間でも評判の婦徳の高い女性だったそうです。写真は神崎寺にある森尚謙のお墓です。
河合菊泉(きくせん)は彰考館総裁になった人だそうです。菊泉の母は、総裁時代、息子が裸で読書している姿を見て、杖で息子をうち、総裁がこの有様では館員を指導することはできないと涙を流して叱責したそうです。賢くて気性の強い女性だったようです。写真は酒門共有墓地にある河合菊泉の墓です。
藤田東湖の母・梅子は気性のまさった、苦難に驚かない人だったそうです。東湖が正妻に離縁を言い渡した時は、自分が許さないと叱りつけて、恐縮した東湖にそれを撤回させたり、妾を離縁した時は、子どもの小太郎と妾が会えるようにしたそうです。東湖は江戸勤番では先ず母に手紙を書いたそうですし、どんなに酔っていても母の一声があるとおとなしくなったそうです。梅子は、地震で自分より先に死んだ東湖の血染めの衣装を大事に保存していたそうです。写真は、常磐共有墓地にある藤田東湖の墓です。
斉昭の妻・吉子は、慶篤、慶喜の実母で、院号は貞芳院、諡(おくりな)は文明夫人というそうです。8代斉脩(なりのぶ)と9代斉昭は異母兄弟で、それぞれの母はたいへん仲が悪かったそうですが、斉昭に嫁いできた吉子は、大奥の老女などを懐柔して、そうしたことが外に漏れないように取り締まったそうです。また、大奥の斉昭を取り巻く女性たちをも、じょうずに御していたそうです。気性のしっかりした人で、公家の出ながら、長刀(なぎなた)や乗馬の練習に励み、斉昭も一目置いていたそうです。スジのない長男・慶篤に対しても、斉昭の考えを伝えたりして、藩主の至らないところを補おうともしていたようですが、これはあまりうまくゆかなかったようです。慶喜の将軍擁立にも尽力したそうですが、聡明な慶喜に対しては危険性を感じていたらしいとのことです。維新後、明治2年から好文亭の梅の間に4年間住んで、その後東京へ行き、90歳の長寿を保ったそうです。賢夫人で、しっかりした判断力を持っていた人のようです。写真は好文亭の梅の間です。