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ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

今年の水戸黄門まつり寸景(2)

2025-08-03 21:54:11 | 水戸

 台風の影響はほとんどなく、ぶじに今年の水戸黄門まつりは進行したようです。人出にも恵まれたようで、主催側の人たちはさぞかしほっとしたことでしょう。
 はてなブロクへの引越作業をぼつぼつはじめようと思います。ちょうど、手が痛くなって、キーボード作業が苦労になってしまいましたので、この機会にすこしブログ投稿を休もうと思います。休養してから、はてなブログで「ぶらっと水戸」を再開しようと思いますので、よろしくお願いいたします。

 

シンボルタワーの風車(南町自由広場)
 去年は提灯のタワーでしたが、今年は風車になったようです。骨組みの一面に小さな風車が並んでいました。(撮影8/4 AM11時)

 

救護所(南町自由広場前)
 熱波の中でのイベントなので、きっと救護所は忙しかったことでしょう。霧吹きの扇風機が各所に置かれていました。写真にも見えますが、うちわも大量に配られていたようです。(撮影8/2 PM1時)

 

コンサート(水戸駅北口ペデストリアンデッキ)
 町内各所にステージが設けられて、コンサートなどがおこなわれているようでした。写真は水戸駅北口のペデストリアンデッキのお休み処でおこなわれていた金管楽器のコンサートです。(撮影8/2 PM2時)

 

カーニバル(泉町)
 35の連が参加したダンスは、メインイベントの一つのようでした。(撮影8/2 PM6時)

 

乾杯(南町)
 カーニバル表彰式の開催に先立って、乾杯条例にのっとり、水戸の酒で乾杯がおこなわれました。手前の女性たちは梅大使です。(撮影8/2 PM7時)

 

カーニバル表彰式(南町)
 乾杯の後にカーニバルの表彰式がありました。今年は水戸藩YOSAKOI連が優勝したようです。(撮影8/2 PM7時)

 

提灯行列(大工町)
 今年は、カーニバル参加者が多く参加したようでした。東照宮の山車が行列の先導をしていました。(撮影8/2 PM8時)

 

大神輿(水戸市民会館 泉町1-7-1)
 多分暑さのせいでしょう、今年の大神輿渡御は見送られたようで、その他の神輿の出御を見守っていたようです。(撮影8/3 PM2時)

 

神輿出御(泉町)
 10基ぐらいの神輿が勢揃いしていました。この後、各町内の山車が、踊りや囃子を競い合う「叩き合い」をしたようです。(撮影8/3 PM3時)

今年の水戸黄門まつり寸景(1)

コメント (2)
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水戸・偕楽園の話(3)

2025-08-02 21:50:20 | 水戸

 吉成又右衛門に、先代(斉昭の兄・8代・斉脩(なりのぶ))は瓢箪を愛したが、9代・斉昭は遊園を作った、どちらが金がかかるかと藤田東湖は批判されたそうです。東湖は、初め、七面山(偕楽園のあるあたり)に休息所をつくるということで偕楽園創設に賛成した。でも、計画が大きくなるので、斉昭に、2代・光圀は西山に茅屋(隠居場の西山荘)を建てて費用を節約したので人が慕ったのだと、聞こえるように独り言を言うと、斉昭は、光圀は大伽藍をつくったが、自分には及びもつかないことだといわれ、言葉をかえせなかったと、吉成に答えたそうです。写真は光圀が母のために建立した久昌寺(常陸太田市)の現在の姿です。

 

 現在、吐玉泉の付近には、太郎杉と、枯れた次郎杉の根株がありますが、偕楽園開設当時には五郎杉まであったそうです。そして、仙奕台(せんえきだい)あたりには、天翔の松、枝を南崖に垂らした羽衣の松が、梅園縁のあたりには傘松があり、現在の苗圃あたりにはウロに人が入れたというシダレザクラがあったそうです。羽衣の松(マツクイムシのため昭和54年伐採)の一部は、好文亭入口付近に展示されています。

 

 好文亭の奥殿には、柵町にあった中御殿から移築された建物がいくつかあったそうですが、明治維新後、偕楽園を公園化するにあたって修理費の削減をはかるために取り壊されたそうです。もし、残っていたら今とは違う雰囲気の好文亭になっていたことでしょう。

 

 偕楽園は明治維新後、徳川家の手を離れて国有となり、明治6年に常磐公園となったそうです。その後県の管理となり、園吏をおいて管理したそうです。明治25年には水戸市の管理に移ったそうですが、数年後には、維持費の捻出に苦しんだ水戸市は、再び県の管理にもどしたそうです。このとき市ががまんして管理を続けていれば、今のような偕楽園を巡る県と市のぎくしゃくした関係はなかったかもしれません。

 

 少なくても昭和53年まで、偕楽園梅林に散策路はなく、自由に梅林内を散策できたようです。「入園無料で好き勝手に梅林に踏み込める」ことと、由緒ある歴史遺跡として梅林を保存することの両立をはかるための規制が必要であろうということが、松崎睦生の偕楽園歳時記(昭和53年刊)に書かれています。

水戸・偕楽園の話(2)

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水戸の廃寺となって残った墓地

2025-08-01 21:51:21 | 水戸

 廃寺になって、坊さんがいなくなってしまった寺が水戸ではたくさんあるようです。寺らしい簡素な建物はあっても、坊さんはいなくて、法事は同じ宗派の寺の坊さんがおこなっているようです。

 

長福寺墓地(青柳町794)
 この地はかつて馬場資幹(すけもと)が水戸を支配した頃、周辺に同族を配置した一つである青柳館の跡だそうですが、その後、そこに文明3年(1471)に瑠璃山金剛院長福寺が宥栄により開基されたそうです。徳川斉昭による天保の改革で一旦廃寺が決まったものの、その後の藩内抗争の過程で、そのままになってそうです。しかし、その抗争による、元治甲子の乱で焼失したそうです。残ったのは、墓地と明和5年の銘がある「金曹(そう 一字です)」盤地蔵などのようです。(撮影R1/8)

 

成就院墓地(大塚町36°23'12.5"N 140°23'31.3"Eあたり)
 元禄時代にはあったという真言宗成就院の墓地です。少し離れたところにある成就院池は、寺の境内にあった池だそうです。また、境内にあった不動堂が、墓地に残っているようで、現在も祭事がおこなわれているようです。池周辺の成就院池公園には、サギソウやヒカリモなどがみられるようです。(撮影H29/5)

 

江林寺墓地(松本町36°23'31.6"N 140°27'25.2"Eあたり)
 徳川頼房の家臣だった岡崎綱住(母は頼房・光圀の乳母)が、寛永4年(1627)に開基した寺だそうで、寛文6年(1666)の寺社整理で現在地に遷されたそうです。斉昭の天保の改革で廃寺となったそうです。現在は祇園寺が管理しているそうです。赤林、尾崎氏などの水戸藩重臣や、山村暮鳥の墓があるそうです。(撮影R5/5)

 

満福寺墓地(大塚町495-2)
 江戸氏の真言宗保護により、建立された寺だそうです。無量山長蔵院満福寺といったそうです。本尊は建長8年(1256)と墨書きがある鎌倉時代の一木造りの阿弥陀三尊像だそうで、現在、県指定文化財になっているそうです。天保年代に廃寺になったそうです。現在も地元の人たちによって支えられているようです。(撮影H31/4)

 

地蔵院墓地(金谷町325)
 金谷は水戸藩の連枝であった宍戸藩だったそうです。ですから、斉昭の天保の改革による廃寺とは関係ないのかも知れません。お盆に行くと、たくさんの提灯がかけられていて、今も参拝が欠かせずおこなわれているようでした。ここには、墓だけでなく庚申塔光明真言百万遍の碑など色々な石造物があります。墓地は写真のお堂左側にあります。(撮影R6/8)

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水戸の蔵棟木にかかれた模様(15)

2025-07-31 21:55:29 | 水戸

 今回は山印(∧)の付いた屋号です。今回の他にも、すでに「∧や」「∧カ」「∧忠」「∧勝」をご紹介していますので、屋号に山が付くことはけっこう多いようです。

 

∧ヒ(加倉井町)
 「∧」の太さを末広がりにしている場合が多いようです。「∧」も末広がりですから、二重になっているのでしょう。片仮名を使うのは少数派のようです。(撮影R2/9)

 

∧大(開江町)
 漢字1文字の場合は、たぶん、名字か名前の上の一字なのでしょう。ここでは、張り出した棟木全体が白く塗られています。(撮影R3/8)

 

∧末(小泉町)
 表面の地を黒にして、枠と文字部分を白抜きにするものが多いようです。(撮影R3/8)

 

∧庄(酒門町)
 この「庄」の字は、江戸文字風に書かれたような感じがしませんか。(撮影R4/12)

 

∧塚本(栗崎町)
 「∧」の下を1文字でなく、2文字の名字をそのまま使ったらしい棟木です。同じ名字の家と区別するために「∧」をつけたのでしょうか。(撮影R3/3)

水戸の蔵棟木にかかれた模様(14)

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水戸の手水舎(2)

2025-07-30 21:49:49 | 水戸

甘酒地蔵(金町1-4)
 自然木を使った2本柱の手水舎(ちょうずや)です。いい雰囲気の建物です。境内には百万遍等、10基位の石造物が並んでいます。(撮影R4/8)

 

和光院(田島町415)
 4本の柱を四角い石棒にした珍しい手水舎です。手水鉢は龍の彫刻がほどこされた大きなものなので、手水舎も大きくなっているのでしょう。(撮影H30/1)

 

回天神社(松本町13-33)
 金属製の2本柱で支えられたシンプルなデザインの手水舎です。自然石の台石にのる手水鉢は、丸い形です。神殿の扉の模様も丸になっています。(撮影H30/11)

 

湯殿山大権現(小吹町36°21'00.1"N 140°25'50.1"Eあたり)
 柱が末広がり形になった手水鉢です。これほど広がらないものの、末広がり形の手水舎は、弘道館鹿島神社仏性寺等、ときどき見られるようです。(撮影R4/5)

 

大杉神社(下大野町36°20'43.6"N 140°33'14.7"Eあたり)
 柱などの腐蝕対策なのでしょう、コンクリートの台を付けたり、防腐、防銹ペンキをぬったりする手水舎もありました。(撮影H29/8)

 

金刀比羅神社(白梅4-7-16)
 手水舎にてるてる坊主が並んでいました。たぶん、吉田神社の秋季例大祭の晴天を願ってさげたのでしょう。花手水もしつらえてあるようです。珍しいウサギの狛犬も見えます。(撮影R6/10)

水戸の手水舎(1)

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