偕楽園の梅は、4~5割ぐらいの開花となったようです。3月1日からは、夜のイベントとして、チームラボの卵型照明やプロジェクションマッピング、梅花の照明が、入場料1,500円で行われるようです。
左右に伸びた梅(飯富町)
左右に大きく伸びた梅です。残念ながら今日はまだ赤い蕾の状態でした。
ふくゆい売店(偕楽園 常盤町1-3-3)
JA水戸梅生産部会がジョイント栽培で収獲した、水戸産のふくゆいという名前の梅を原料にした、いろいろな商品が生産され始めているようです。梅色未来という菓子や梅干し、梅酒などの共通ブランドもできたようです。水戸市も力を入れているようです。写真は偕楽園にあるふくゆいの売店です。
ウメ品種見本園(偕楽園公園 36°22'07.4"N 140°26'43.5"Eあたり一帯)
そうとう広い面積に、花ウメ、実ウメ、枝垂れウメを栽培しているそうです。偕楽園にある苗畑で台木を育てて、それに病気のない保存しようとする梅の木を接ぎ木して、ここに移植しているようです。まだ公開はしていないようです。樹木類後継木園という表示も見られます。
水戸の梅花道(常磐神社 常磐町1-3-1)
「梅花道」も出てきたようです。「その一 門前で居づまいを正し、心を静める。」から、「その六 そして、そっと清楚な花々に近づき、深呼吸・・・・。馥郁(ふくいく)とした香りが体の隅々に流れ、至福の喜びを味わう。」となって、「その七 門を出、心静かに時を楽しむ。」とあります。偕楽園は、環境省選定の「かおり風景百選」に選定されているそうです。常磐神社で写真の印刷物を見ました。
屋根のてっぺん(川又町)
大棟の装飾に、梅花がつけられています。これはここのお宅だけで見ました。梅の好きな人なのでしょう。
水戸で見かけた陶磁器です。プラスチックのなかった昔は、陶磁器や木器が日常生活で広く使われていたのでしょうが、その流れは確実に今に引き継がれているのでしょう。水戸は現在、陶磁器の産地ということではないようですが、目につく陶磁器はいろいろあるようです。
縄文土器(埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1)
縄文時代中期(4、500年前)の、折衷土器という、弥生式とその後に出てくる土師器(はじき)との折衷型の、深鉢だそうです。上国井町にある軍民坂遺跡からの出土品だそうです。市内各所で発掘される遺跡から、数多くの土器等が出てきているようで、学校で教わった発掘品規模の感じをはるかに越えた数の品々がみつかっているようです。写真の土器などは、原型がよく分かる出土品のようです。
七面焼(江戸時代)(二の丸展示館 三の丸2-6-8)
徳川斉昭が藩主になって早々に、陶土の探索を藩に命じたものの、ないとの答えだったそうです。斉昭はそれに屈せず、見本の土を送って再調査させて、ようやく水戸藩では天保9年(1826)に製陶が始まったそうです。常磐神社石段のあたりに登り窯が築かれて、七面焼きがつくられたようです。製陶は明治4年まで続いたそうです。写真上は、二の丸展示館にある、二の丸から出土した七面焼きだそうです。写真下は、常磐神社石段(左)脇にある陶器製造所跡の碑(右)です。
七面焼(現代)(水戸市植物公園 小吹町504)
七面焼きはいったん途絶えたようですが、現在は復活して、七面会がその名をついで焼成しているようです。先日市役所に行ったところ、七面会で寄贈したという花器が展示されていました。
恵比寿・大黒(日吉神社 酒門町1432)
残念ながらすでに廃業してしまったボチ屋という焼き物屋がつくっていた縁起物です。水戸で一番有名だったのは、吉田神社近くにあった中村氏が営んだボチ屋のようです。神社で大量に見られる素焼き像ですが、現在完全に見捨てられているようです。
オランダ陶器(埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1)
加倉井砂山が運営した日新塾跡(成沢町366)から出土した陶器だそうです。幕末の、攘夷が主流であった水戸藩にも、狭いながら海外に向けた窓があったというあかしなのでしょう。
今回も名詞です。全部、飯富村の「郷土誌」にあった方言です。括弧内は、私の単なるつぶやきなので、さらっと読み流して下さい。
あっぽち 餅(「ぽち」が餅のようですが、「あ」は何でしょう)
かきまわし 炊事等をすること(料理では鍋などの中をかきまわしますからでしょうか)
こいつ 北
ざんぱん 俎板(まないた まさか斬板ではないでしょう)
ぞんぞ 子供のぞうり(幼児言葉のような感じです)
ちゃべこべ 多言すること(しゃべくるといった感じなのでしょうか)
どぶせ 土台の下(土伏せと書けますが…)
まま 火(火はご飯を炊くからと考えられるかも…)
めとっこ 孔(あな 針の穴を「みづ」といって、それが「めど」もなったと大言海にあります)
ようわり 夜仕事(東条操の方言辞典には、「よわり」という真壁郡の方言として載っています)
ヤダケ(偕楽園西門近く 36.376310, 140.449405あたり)
矢竹と書きますが、笹の仲間だそうです。節が長くて硬くまっすぐなので、矢として使われたようです。徳川斉昭は偕楽園をつくるにあたって、考えの一方には、いつも、「武」を置いていたようです。梅は軍用食、竹は弓矢の材料、建物は万が一の避難所と日常の見張所といった具合のようです。現在偕楽園のヤダケは、西門近くの常磐線沿いぐらいのようで、ほかはタイミンチクのようです。
竹樋(たけどい 好文亭何陋庵(かろうあん) 常磐町1-3-3)
茶室ということもあるのでしょうが、何陋庵のにじり口(客の入り口)の上に掛けられた樋は竹製です。簡素を基本にしたらしい好文亭の主旨にもぴったりの作り方です。
竹塀(たけべい 偕楽園表門近く 36.376620, 140.451589あたり)
これも偕楽園です。表門外にある梅林坂に面して建てられた塀は、先をとがらせて斜めに組んだ竹でつくられています。偕楽園内にも、同様の小さい塀があります。
提灯(ちょうちん 千波公園 千波町)
提灯の形は細く細工した竹ひごを丸めてそれを骨組みにしてつくるようです。写真右上にあるのが竹ひごです。提灯は、日本の代表的手仕事の一つであるように思います。去年おこなわれた、千波湖アウトドア&クラフトJAM'20で見ました。
亀甲竹(きっこうちく)の杖(偕楽園入り口付近)
テレビなどでは、亀甲竹の杖を水戸黄門がつかっていますが、光圀が実際に使っていたのはアカザの杖だったそうです。亀甲竹の方が丈夫なので撮影に使われたようです。写真は、劇団いばらきの黄門様が偕楽園に入ろうとしているところです。