遅月は、寛延3年(1750)、備中(現・岡山県)の生まれで、仏門に入り、明和5年(1768)に京都安養寺で修行したそうです。俳諧を不二庵二柳に学び、常陸では数百人の門人をとったそうです。また、篆刻、医術、易学、香道、茶道などにも通じた多彩な文化人だったそうです。各地を流浪し、水戸へは2度来て、神崎寺(天王町)、不動院(田野町)、竜光院(飯富町)、長福寺(青柳町)、八幡町、瓦谷(瓦隣居)などに住んだそうです。水戸では、下町・高井悟井(林十江の父 豪商)、上町・加納笠斎(豪商)、立原翠軒などの後ろ盾があったそうです。親しい翠軒が江戸に出たのを追ったようで、江戸へ出て文化9年(1812)に死去したそうです。翠軒が分骨を神崎寺に納めて、瘞蔵碑(えいぞうひ)の文を書いたそうです。
芭蕉句碑(竜光院跡(大井神社脇) 飯富町3475)
遅月は竜光院では住職になったそうですが、芭蕉句碑「古池や蛙飛こ無水の音」を境内に建てたそうです。
遅月句碑(竜光院跡(大井神社脇) 飯富町3475)
「水見ても笑ふがごとし春の月」という句を、芭蕉句碑の隣に、ひたち野社同人が建てています。遅月は「平明洒脱」な句風を教えたそうです。
遅月上人分骨瘞蔵碑(ぶんこつえいぞうひ 神崎寺 天王町8-17)
辞世句にふさわしい「身もかくと思へば寒し散る桜」が記されているそうです。また、遅月が「滑稽戯譃、常解人頤(つねに人のあごをとく)」と、ユーモアに富んだひとだったことが記されているそうです。立原翠軒の文だそうです。
遅月居住の地(以下の神崎寺、竜光院跡、不動院、長福寺跡です)
神崎寺(天王町8-17)
境内に、上にある瘞蔵碑があります。瘞蔵とは埋めるという意味だそうです。
竜光院跡(大井神社脇) 飯富町3475)
今は入口付近に碑だけがある平地です。
不動院(田野町662-1)
現在は、無住のお寺らしい3棟のお堂があり、崖下には滝不動尊があります。
長福寺跡(青柳町)
墓地だけがある寺跡です。