ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の不動(1)

2016-11-30 21:45:37 | 水戸

和光院不動堂(田島町415)
 宝暦5年(1755)に上総(千葉県)の大工がつくったという3間四方の端正な作りのお堂だそうです。このお堂に安置されている不動明王には、秘法の胎内仏があるそうです。また、不動明王から出た血で描かれたという血不動もあるそうです。建物は市の指定文化財です。

 

笠原不動尊
 銀河寺不動院だったそうですが、徳川斉昭の天保の改革で、廃寺になったそうです。昭和になって元の地に再建されたそうですが、その後の修繕がされていないようで、かなりひどい状態になっています。龍が宝剣に巻きついた倶利伽羅不動が本尊のようです。

 

中原不動尊(中原町786)
 東光院というお寺だったそうですが、明治20年代に廃寺となり、今は中原集落センターの敷地の一部になっているそうです。屋根は瓦ぶきのようにみえる金属がはられていますが、本来は茅ぶきだったそうです。不動堂厨子の中には不動尊が安置されているそうです。

 

宝鏡院不動尊(城東1-11)
 真言宗四檀林に選ばれていた大きなお寺だったそうです。東隣が三九郎河岸という那珂川の荷揚げ所だったそうです。斉昭によって処分され、今は不動堂のみがあります。「お不動さま」と呼ばれて地域で信仰されているそうです。戦災にあって昔の面影は見られませんが、石像の宝剣が庭に残っています。

 

金上山(瓦谷)不動尊(瓦谷4-1)
 勝田町(現・ひたちなか市)金上(かねあげ)から瓦谷に移った宝船寺で、加持祈祷の護摩を焚く修法に多くの信者が集まりたいへんにぎわったそうです。向かいの金剛橋は信者によってつくられたそうです。

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水戸ののれん(夜の部)

2016-11-29 17:54:12 | 水戸


 昼間営業の店でさげているのれんとは違って、夜の店ののれんは、まだかなり健在のようでした。居酒屋といえば縄のれんと思っていたのですが、これは意外に少なくてびっくりしました。また、居酒屋ばかりでなく、かなり色々の業種の店でのれんをさげていることも知りました。

 

居酒屋  縄のれん 福とり(泉町3-2-11)

 

居酒屋 布のれん もつ焼き 高嶺(宮町2-3-3)

 

ラーメン店ののれん  麺 一房(南町2-4-37 )

 

すし屋ののれん  河乃(大工町1-3-9)

 


そば屋ののれん  三笠屋(大工町1-3-14)

 


とんかつ屋ののれん 楽天(宮町2-5-6)

 

水戸ののれん(1)

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水戸の五輪塔(1)

2016-11-28 22:11:44 | 水戸

 宇宙を構成している五つの要素である、「地水火風空」を形にした、下から方形(地)、球形(水)、三角形(火)、半月形(風)、宝珠(空)の五つの石を積み重ねた石塔です。密教の教義をあらわしたもののようで、大日如来の象徴ともされたそうです。「地水火風空」の外に、大日真言の「ア(地)バ(水)ラ(火)カ(風)キャ(空)」の梵字を刻したものも多いようです。日蓮宗では、上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻んでいるそうです。初めは、お堂や仏像の造立記念の碑や供養塔などとして建てられたようですが、墓としても建てられるようになったそうです。

 

亀千代の五輪塔
 薬王院(元吉田町682)
 徳川頼房の、4歳で早世した次男亀千代の供養塔だそうです。光圀によって水戸徳川家の墓地、常陸太田の瑞竜山に改葬されたため、土中に埋められ、それが昭和43年に発見されて今のような形になったそうです。これは梵字の例のようです。

 

松平駿河守墓
 妙雲寺(見川2-103)
 光圀の妹・菊姫の夫(松平駿河守源康兼)の墓だそうです。夫の死後、菊姫はその後つくられる偕楽園好文亭あたりの別荘で尼として追善の生活を送ったそうです。3代藩主・綱條(つなえだ)は、日蓮信者だった菊姫のために、見川稲荷から七面堂をこの地に移したそうです。幕末、斉昭は偕楽園築造のとき、七面堂を妙雲寺に移したそうです。

 

真木景猶(かげつぐ)の五輪塔
 本法寺  千波町2367
 頼房の依頼で、前の城主から膝下の家臣として移った人で、家老に準ずる地位についていたそうです。五軒町2にある真木神社のある地は、この人の屋敷跡だそうです。

 

薬王院の五輪塔
 薬王院(元吉田町682)
 地水火風空が下から刻まれている例です。

 

妙雲寺の五輪塔
 妙雲寺(見川2-103)
 この寺は日蓮宗なので、「妙法蓮華経」の五文字が刻まれています。

 

圷大野共新墓地の五輪塔
 共同墓地が整理されて、たぶん一カ所にまとめられたものでしょうが、いくつかの五輪塔が墓地の入口に並んでいます。庶民の墓としても建てられていたということなのでしょう。

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水戸の城下町マップで見る城東の旧桜川

2016-11-27 22:05:29 | 水戸

 

 

 水戸市観光協会が発行している文久元年(1861)と最近の地図が重ねられている「水戸の城下町マップ 幕末版」では、城南地区の旧桜川跡は青色で印刷されています。77(鍛冶町)-60(赤沼町)-城東小学校脇-58(川岸通)と流れて、濠の流れと合流して那珂川に流れ込んでいたようです。(見にくいので地図を拡大してください。)赤線が現在の桜川です。下の写真で見てみましょう。地図中の「あ」は搦手橋脇の樋管で、ここから今の桜川とは大分違って、一旦南に流れていたようです。「い」「う」それが、大きく蛇行して北行して東台地区を流れます。「え」十軒町樋管(写真中央川向こう)から赤沼町樋管へとつながり、「お」城東児童公園を流れます。川に沿って馬場があったようです。「か」、「き」(石垣の左側)で、城東小学校の脇を流れ、「く」河岸通りの処を流れて、濠の流れと合流し、「け」最終的に那珂川に流れ込むということだったようです。そして、近くにあった引き込み線の貨物駅から、石炭殻などを運んで埋め立てたそうです。地図を見ながら歩いてみましたが、跡が結構残っていて、楽しく散歩することができました。

 

 あ:搦手橋脇樋管

 

い:東台2丁目あたり住宅街の中 

 

 

 う:桜川土手から川跡を見る

 

 え:赤沼町樋管十軒町樋館

 

お:赤沼児童公園と赤沼保育園

 

か:城東小学校東南脇

 

き:城東小学校東北脇

 

く:河岸通りの濠との合流点あたり

 

け:那珂川流入点近く

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水戸の明治時代創業老舗(4)

2016-11-26 21:32:07 | 水戸

㈱茨城新聞
 笠原町978-25  茨城県開発公社ビル3F  029-239-3001
 明治24年にいはらきという名称で南町に開業した新聞だそうです。第1号で2週間休刊が社告されていたという経営だったそうですが、2代目社長が飯村丈太郎となり、経営の安定化ができたそうです。大正7年、昭和20年と、2度の火災にあったそうですが、地元発行の総合新聞として今にいたっているそうです。

 

喜久蔵久米洋服店
 宮町2-3-36久米ビル6F  029-221-3561
 明治35年創業のオーダーメイドスーツの洋服店だそうです。

 

辻武塗料㈱
 木葉下町富士山292-42  029-254-7511
 明治40年創業の、現在は水戸西流通センターにある塗料販売の商社で、建築、自動車の塗料販売や、看板制作などを行っているそうです。

 

照沼薬局
 泉町1-2-21  029-221-4493
 明治41年創業の相談型漢方薬局店です。店主はスピーカーの手作りがが趣味だそうです。

 

フジタ㈱
 南町1-3-6  029-231-3331
 明治18年創業で、文具、オフィス用品販売、内装等の業務をおこなっているそうです。煙草製造で出発したものの、煙草が専売制になったことから、明治37年に文具商を開業したのだそうです。

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