MATTのひとりごと

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ホノウリウリ収容所跡地への訪問(2016年2月11日)

2016年02月11日 | 歴史・地理

私がハワイに6年間滞在している間に是非実行したいプランが数件あり、実現できたもの、できなかったものそれぞれ何件ずつかありました。

今回ご紹介いたします「ホノウリウリ収容所跡地の訪問」もそのプランのひとつで、なんと帰国の一ヶ月前となってから遂に実現いたしました。

2016年2月11日(木)HISLEA(ハワイシニアライフ協会)主催のホノウリウリ収容所史跡ツアーの案内がありましたので


張り切って参加いたしました。

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第二次大戦の開戦に伴い開設されたホノウリウリ収容所は終戦後にすべて破壊され、更地に戻されました。
このためこの場所の存在がその後57年もの間知られずに過ぎたのですが、日本文化センター(JCCH)


の努力により場所が特定されるとともに保全されたことで2015年に米国の国定史跡に指定されました。
この場所は米国企業が所有しているためにJCCHに対してのみ見学が許されているとのことでHISLEAのツアーも今回が最初で最後かもしれないという貴重な体験でした。

この土地の所有者であるモンサント社(現在はバイエル社)の建物の前からは遠くダイヤモンド・ヘッドや真珠湾が望める絶景の地なのですが、




航空写真でこの場所のすぐ西側に見える緑の谷が収容所の所在地でした。




70年の間に鬱蒼としたジャングルになってしまいましたが、当時はもちろん樹木などはなく鉄条網で囲われた4000名を越える収容人数の収容所だったのです。
収容されていた人たちはもとより、毎月面会に訪れる被収容者の家族たちもまさかこれほど近くに絶景の場所があるとは思いも寄らなかったと思います。
もちろん収容者は鉄条網とMPに囲まれていて外部の様子は分かりませんし、訪問家族はこの場所まで全員目隠しをされてやってくるので絶景を楽しむどころかこの収容所がどこにあるのかの手がかりも一切なかった筈ですから。








HISLEA主催ホノウリウリ・ツアーの最後にJCCHメンバーによる「ホノウリウリ」の演奏とフラがおこなわれました。


コアロハ・パパの作ったこの曲の歌詞が涙を誘います。

私が参加したときに同じツアーに参加した方のレポートがyoutubeになっていますのでご覧ください。
私はカメラに写るのが嫌いだったので動画には載っていないのですが家内はこの写真の右方向白い帽子を被って写っています。


このyoutubeではコアロハ・パパの作った曲を聴くことができます。

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第二次世界大戦終了後1946年にこの収容所は跡形もなく撤去されました。そして1998年になってホノルルのTV局KHONが映画「シンドラーのリスト」


を放映するに当たって「たしかオアフ島にも日系人の収容所があったように聞いたので、詳細を教えてほしい」とJCCH(日本文化センター)に問い合わせがあったのですが、何の資料も残っていなかったのでそれからJCCHのメンバーが探し始め、4年後の2002年についにその場所を突き止めたのです。
当初は地図から分かるようにかなり内陸側にあることすら分からなかったそうです。


この場所の整備保全にはJCCHとたくさんのボランティア、そしてハワイ大学西オアフ校のメンバーも尽力したようです。

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当初この収容所のあったホノウリウリ(Honouliuli)というのがこの土地の名称と思っていました。まぁ間違いではないのですが、ハワイの場合山の頂上から川に沿った土地が海に注ぐ場所までがひとつの地名で呼ばれることがおおいそうで、ちょうどケーキをカットした一片のような形状をした土地がひとつの地名になるとのことです。


したがって「ホノウリウリ収容所」もこのケーキの一片?のなかにある収容所ということのようです。
頭に付くホノ(Hono-)というのは「湾」「峡谷」「谷間」を現す接頭語でPlace Names of Hawaii


によるとハワイ諸島には45箇所もHono-の付いた地名があるとのこと。もちろんHonoluluも含まれます。
そしてウリウリ(uliuli)というとすぐに楽器のウリウリを思い出しますが、あれは`Uli`uliと書き、「ガチャガチャ言う」という単語「`uli」の繰り返しですが、こちらはuliuliと書き、「暗い」「黒い」といった意味の「uli」の繰り返しです。
このこともあって収容された人たちから収容所のある場所が「暗い谷」すなわち「地獄谷」と呼ばれたのはHonouliuliを直訳したのだと思っていましたがそうでもなかったようです。それどころか機密保持のためその場所の地名などは一切知らされていなかったと思いますので。
ワヒネ・イリケアの歌詞にHonouli Waiとあるのもモロカイ島東端ハーラヴァの南にある土地の名前であり、そこを流れる川の名前ですが、おそらく深い藍色をした川なのではないでしょうか。
「地獄谷」と呼ばれた理由は、やたらに蒸し暑いだけでなく窓を開けると蚊の大群が襲ってくるので窓も開けられない環境だったことから来ているようで、今回のツアーでも事前に「蚊に襲われないように長袖シャツと長ズボンを着用し、できれば虫除けスプレーを持参すること」との案内を貰いました。
確かに下の3枚の写真(ハワイ大学西オアフ校が2014年に行った校外学習)のように草むらが多いようなので、デング熱やジカ熱を避ける意味でも完全?装備で出かけました。






ここからは今回のツアーの写真です。


当時の食堂のスケッチです。


被収容者たちはここを「地獄谷」と呼んでいたとのことです。


ツアー参加者とJCCHメンバーの記念撮影です。


前記の写真のように深くは入り込まないこともあって蚊に襲われることもなく戻ってきました。
まぁ「蚊もなく鱶もなく」といったところでしょうか(フカなどいる筈もないですが・・・笑)

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これらの写真は2013年10月に作られたTV映画「ハワイ・ファイブ・オー」のセットです。




このセットは真珠湾攻撃からホノウリウリ収容までのエピソードに使われたとのことです。
設置場所はホノウリウリではなく中部オアフのワヒアヴァのサトウキビ栽培地の跡地でした。

TV番組だけのためにこれだけ大掛かりなセットをつくるのは、「さすがアメリカ!」という感じです。

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2009年に亡くなられた音楽教師のハリー・ウラタさんとはハワイで何度もお目にかかりました。


ハリーさんも開戦時にこの収容所に収容されました。理由はハワイ生まれの彼が日本で教育を受けた「帰米二世」であるために日本の軍国精神を吹き込まれたのではないかという疑いからでした。
JCCHの作成したビデオ「Honouliuli: Hawai'i's Hidden Internment Camp」


によると、2008年に往時の収容者をはじめ収容者の家族たちがこの地を訪れました。(Pilgrimmage to Honouliuli :ホノウリウリへの巡礼の旅)


跡地に向けて花を手向けるハリーさんたち訪問者。


当時を語るハリーさんです。


ハリーさんは普段、収容所生活についてはあまり触れませんでしたが、このときに巡礼できて感動されたことでしょう。
音楽教師であったハリー・ウラタさんは収容所の中で出会った先輩の音楽家のかたから「君が自由になったらほとんど消えかけているホレホレ節を収集して整理するように」といわれたのがきっかけで、終戦後ポータブル録音機をもって各地を歩き、一世のお年寄りたちからいろいろなバリエーションの「ホレホレ節」を集め、整理したものをスミソニアン博物館に永久保存してもらいました。
現在この歌が歌われているのはハリーさんの努力の賜物なのです。
このあたりのいきさつを記した「ホレホレ節ガール」として2000年に開催されたNHKのど自慢イン・ハワイに優勝し、その後2002年に放送されたNHK連続テレビ小説「さくら」の主題歌を歌ったアリソン・アラカワのインタビュー記事があるのでご覧ください。


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日本側の動きを知った米国は、開戦前に収容すべき日系人のリストを完成させていました。
米本土では大多数の日系人が各地の収容所に収容されたのですが、当時のハワイでは日系人の比率が40%に近かったため、到底全員を収容するわけには行かないだけでなく、収容できたとしてもハワイの経済が成り立たなくなると判断されたようなのです。リストに記載された人たちとしては、神官、僧侶、学校の校長クラス、そしてハリーさんのような帰米二世など、指導的立場にある人たちでした。
そして約400名の被収容者たちは開戦と同時にMPに拉致され、ホノルル移民局に集結させられました。
そして急ごしらえのキャンプがサンド・アイランドに作られたのです。


彼らはテントの材料だけを与えられ、自分たちでテントを立てる必要があったのですが、慣れない人が多かったので被収容者のうちの建築家たちが手伝って完成させました。
翌年3月1日にホノウリウリ収容所の完成に伴ってこの場所の被収容者はホノウリウリ収容所に移送されたのです。
実はホノウリウリに収容された日系人は僅か(と言っては失礼なのですが)350名から400名程度で、彼らのほかにドイツ系、イタリア系など4000名前後のPOW(Prisoners of War: 戦争捕虜)が収容されたのです。POWといっても実際に戦った兵士ではなく軍属が大半だったようですが・・・・

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収容所近くにあるアノヌイとクニアの交差点です。(地図ではT字路ですが実際にはこの写真のように変則六差路です)






H1方向からクニア・ロード(750号線)を上がって来たクルマがこの交差点で左折するとすぐにモンサント私有地のゲートが現われますが、事前許可のないクルマは入れません。


この土地を所有しているモンサント社(現バイエル社)がこの収容所跡地を国の国立公園局に提供したため、この場所が「国定史跡」となりました。
モンサント社の前のこの土地のオーナーはキャンベル社で、所有当初はホノウリウリ収容所の存在を知らなかったと思います。
モンサント社がこの地を購入した2007年にはもちろん収容所のことは知った上でのことでした。

実は私自身としては今までこのモンサント社には良い印象を持っていませんでした。
まず、ベトナム戦争時にベトコンが木陰に隠れないようにと大量の「枯葉剤」が散布されました。モンサント社をはじめとして米国の大企業4社がこの薬を製造したのですが、後になってこの薬に含まれるダイオキシンの影響と見られる奇形児が数多く誕生したり、帰還兵たちに重大な健康被害がでたという黒い歴史があります。

そして、モンサント者はその後、健康被害が懸念されている「遺伝子組み換え種子」とそれに対応した薬品のトップメーカーとして君臨していますが、おそらくこの広い敷地内でもその研究が繰り広げられているのでしょう。

そういった印象のあまり良くない企業ではありますがホノウリウリ国定史跡を大切にする姿勢には好感が持てました。
2018年にモンサント社はドイツのバイエル社に買収され、現在はその社名は残っていませんが、数多くの訴訟を受けているためこの名前はしばらくニュースには残ると思います。
特に主力製品の遺伝子組み換え作物以外の雑草を駆除するという「ラウンドアップ」で発ガンした、という訴訟が数多くなされています。


ちなみにこの除草剤は日本以外の数多くの国で販売禁止となっているのに対し、わが国では販売が許可されています。

ネット上にはこの除草剤の安全性について数多くの議論が載っているのですが、そのあたりの真相は専門家ではないのでコメントは差し控えます。


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現在建設中で2020年部分開通、2025年全通予定のホノルル高速鉄道(HART)


の始発駅カポレイから3番目の駅名がHonouliuli(別名Ho`opili)です。


グーグルアースで確認したところ、掲載されている写真はこの駅がまだ建設前のものでしたが、グーグルマップの航空写真のほうには路線も駅もしっかりと写っていました。


でも地図で分かるようにこの駅はホノウリウリ収容所跡地からはかなり離れています。
この駅で降りても収容所跡地まで徒歩で行ける距離ではないでしょうし、たとえ行き着いても事前許可がないと中にはいることはできないでしょう。

駅と収容所跡地がこれだけ離れていてもおなじ「ホノウリウリ」なのは、前にも書きましたようにハワイの地名がふつう、ケーキの一切れのように山から海まで同じ名前を使うそうなので納得です。

ホノウリウリ駅の上空からの写真です。この先に始発駅のカポレイ駅があります。
収容所跡地はこの右手方向の奥に位置していると思われます。


2019年に撮影した建設中のホノウリウリ駅です。


グーグルアースの解像度は高いので上の写真に近い精度で確認できるのですが、まだ更新されていないのでグーグルマップの航空写真でこの駅を見てみました。
残念ながら予想通り解像度は低い画像になっていました。


HARTの建設はこれまでも大幅に遅れていましたので、果たして2025年に無事に全通するかどうかは不明です。
できればそれまで生き延びたいところですが、さて、どうなるでしょうか?

2020年2月までのこのホノウリウリ駅(別名ホオピリ駅)の建設状況がここに詳しく紹介されています。

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山崎豊子の長編小説に「二つの祖国」という作品があります。


この小説は米本土で暮らす日系人家族がマンザナー(小説ではマンザナールとなっていました)収容所に収容され、その家族の息子二人が敵味方となって戦地で戦う物語でした。
この小説が連載された週刊新潮を毎週欠かさず読んだ記憶があります。

星条旗が掲げられ、たくさんの建物が並んだマンザナー収容所の正面写真です。


収容所建物の配置図です。「収容・抑留(Internment)」ではなく「移住(Relocation)」と表示されていますが、もちろん強制的に日系人をここに「移住」させた施設なのです。


建物がすべて撤去されたあとのマンザナー収容所跡地の航空写真です。周囲を囲む道路によってどうにか収容所の規模がわかります。


被収容者たちが何かの行事に参加している写真です。


第二次世界大戦中の米国各地の日系人収容施設の位置が記載されています。
地図からお分かりのようにマンザナー収容所はカリフォルニア州にありました。


ハワイでもダニエル・イノウエ


をはじめとした日系人志願兵による部隊がヨーロッパ戦線に従軍して戦地で活躍したことはよく知られていますね。

ハリーさんも従軍こそしませんでしたが、ホノウリウリに収容されたあと米本土のいずれかの収容所に「移住」させられたようですが、詳しくはわかりません。

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8 コメント

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伝えてていただき感涙! (NAKAHARA)
2020-02-18 16:56:30
ハワイにも無実の人が収容された悲しい歴史があったのですね・・広島の原爆資料館を見学した時に白人の女性が涙を流しながら見学していた事、死んだ女房のお袋と沖縄に旅行した時にひめゆりの塔に行って女房のお袋が自分と同じ年代の人が戦争で苦しんだことを思い泣いていた事を思い出しました。マットさんこの様な歴史を教えていただきありがとうございました。実行したい残りのプランも実施されることを期待します。
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NAKAHARAさん (MATT)
2020-02-18 17:05:23
コメントありがとうございました。

もう4年前のことなのですが、いつもですとすぐにブログにアップするにもかかわらず、このレポートだけは「モンサント」の悪評が気になって躊躇していました。

ほかの希望はすべてあきらめました。
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自由と人権 (jinjar)
2020-02-25 13:07:09
「ホノウリウリ収容所跡」の渾身のレポートに、心を打ちひさがれました。
映画「シンドラーのリスト」のハワイ公開がきっかけで、跡地が発見されたという事実に驚かされました。もしかしたら、絶景の地の‘’地獄谷の悲劇‘’は、ハワイの歴史の流れの底に沈みこみ、忘れ去られてしまうことになったかもしれませんね。
時を経て、国定史跡に指定されたことは、深い反省と謝罪を込めた、アメリカの国家としての「良心」を感じとれ、せめてもの救いに思います。
オバマ大統領が広島へ、安倍首相が真珠湾へ。日米首脳の相互訪問で、交戦国が歴史的和解に辿りついたように見えます。自由と人権。今日的価値観を共有することになった両国の絆が一層強まることを願っています。
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jinjarさん (MATT)
2020-02-26 00:15:17
この跡地への訪問は本文でも触れたようにハワイ在住中になんとしても実現したかったもののひとつでしたが、6年間の滞在が終わろうとする時期に実現できたのは私に取って本当に幸運でした。

しかしながら、モンサント社(現・バイエル社)のこれまでの功罪が頭の中を交錯していて、どうしても探訪記をアップする気分になれないまま4年も経過してしまったのです。

でも被収容者にとっては悪夢のような期間だったので到底ご自分の口からはお話いただけないと思いましたので、少しでも客観的に報告するのがこの施設を訪れたものの責務と考えてやっとのことで腰をあげた次第です。
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次世代に伝えたいレポート (jinjar)
2020-02-26 11:39:12
4年もの心の葛藤を経て、レポートの掲載に踏み切った、MATTさんの決意に、敬意を表します。ハワイと日本を、より親密にする重要な文献の一つになることでしょう。
さて、ヨーロッパ戦線の日系人部隊に所属し、右腕を失いながら勇猛果敢に戦い、「アメリカの英雄」と讃えられた、ダニエル・イノウエ上院議員も、この収容所から志願されたのですね。
ホノルルの国際空港にも、英雄の名が冠されるようになりました。今昔の思い、ひとしおです。
それから「ホノウリウリ」の歌。もの悲しくも、希望を捨てない、いい曲ですねぇ。例会のおりでも、ご紹介ください。

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jinjarさん (MATT)
2020-02-26 14:44:17
ダニエル・イノウエは開戦時にハワイ大学の医学生として真珠湾で医療ボランティアを受け持っていました。
彼はこの本文に書きましたように日系人の中での指導者的立場にはなかったので、ホノウリウリには収容されませんでした。
そして1943年に米軍が日系人を対象に召集令状を発行した際に彼もそれに応じて有名な442部隊に参加し、ヨーロッパ戦線で片腕を失いながら大きな武勲を立てたのです。
(上記の記事に誤解を生む表現がありましたので、訂正いたしました。)
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合掌 !イノウエ夫人の死去 (jinjar)
2020-04-10 18:45:38
米日カウンシル会長、アイリーン・ヒラノ・イノウエさん(日系三世)の死去が報じられています。享年71歳。
故ダニエル・イノウエ上院議員の夫人で「全米日系人博物館」の初代館長をつとめ、ハワイや米本土に散在した、戦時下の日系人強制収容所の歴史を伝える活動に尽力されました。
アメリカの日系人社会のシンボル的な存在でした。謹んでご冥福をお祈りします。
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jinjarさん (MATT)
2020-04-11 10:57:14
貴重な情報をありがとうございました。

ダニエル・井上氏(1924年-2012年)は57年連れ添ったマーガレット夫人を彼が82歳の2006年3月に癌で失い、その2年後の2008年5月に60歳だったアイリーン・ヒラノ氏と再婚しました。

アイリーン氏の功績はjijarさんがご紹介されたとおりですが、「イノウエ夫人」としてはもちろんですが、それ以前から活躍されていた功績も大きかったと言えましょう。
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