楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

科学と宗教(2)生活の中の宗教

2012-07-26 02:56:08 | 社会
科学と宗教(2)生活の中の宗教

 私の中の宗教生活、年始の楽しみは初詣。神社に出掛けて、並んで、シャンシャン。
無病息災、家族の健康、大願成就などを祈る。チャリーン。お賽銭を入れてご利益を願う。
おみくじを引いて、一喜一憂。家に神棚はないが、破魔矢を買い、それを一年間、高いところに据えておく。

 研究でちょっとした工事を伴うフィールド。山海の神が怒らないように安全祈願で地鎮祭も行う。

 では、その際、神社に祭ってある神々の存在を信じているのか?と我が身に問うてみる。たとえば伊勢神宮系なら天照大神。出雲大社系なら大国主命。天神系なら菅原道真天神様などなど、八百万の神だ。

 答えは明確に否である。では、なぜ出掛けて手を合わせて祈るのか?自己矛盾、自己欺瞞ではないのか?

 それも否である。神の存在を信じなくとも、そこでなされる祈り、無病息災、家族の健康、大願成就、安全祈願などは真実の心である。

 祈っていながら、それは神頼みではなく自己の努力によってのみ実現することは誰しも皆分かっている事だと思う。そして、それは一人で孤立してはなし得ず、多くの人の支えでできることも。

 その多くの人への感謝と期待のこころが、神への祈りと形を変えているに過ぎないと私は解釈している。全ての生活の中で、関係する全ての人に個別的に改めて感謝なり、お願いをするというのは不可能だ。そこで編み出されたのが神への感謝という形式。なんという素晴らしい知恵であろうか。それも八百万の神!

 ギリシャにしろキリスト以前のローマにしろ、多神教の世界の精神はそれだと思う。感謝と同時に当然畏怖もある。

 すなわち、森羅万象の科学的理由にとっての説明のためではなく、心を如何に納めるか、そこに祈りの本質がある。
 自然現象に対する説明としての宗教の役割は縮小したが、人の心の安寧にとっては益々重要である。私もそこで人間関係事項への決意も含めた祈りを捧げる。だから自然の真理を求める科学とは矛盾していない。

 しかも、よくよく眺めると自然の起源に関わる伝承はなかなか面白い。「そんなものは科学ではない!」と簡単に切り捨てるにはもったいない人間の自然への見方が潜在しているのだ。
(つづく)

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科学と宗教(1)はじめに

2012-07-24 23:23:14 | 社会
科学と宗教


 最近、同窓会で知り合った人から本が送られて来た。”ダーウィンの進化論は間違っている”との大見出しの大川なにがしという人の本である。ダーウィンの進化論はナチスの虐殺、マルクス主義へつながったというアナクロ的なお決まりの論理だ。一般新聞の宣伝広告でも大々的だ。何十万部発行という。しかし、その発行部数の実態は信者が買いそれを知り合いに送りつけているのである。この宗教団体、最近は政党まで作り、選挙にも乗り出している。


 宇宙のはじまり、生命のはじまり、人間のはじまりなどに関して、ほとんどの宗教がかつては神話を持ち説明して来た。しかし、近代になり、科学がそれらの解明に本格的に乗り出した。先のヒッグス粒子の確認ニュースのように、まだまだ分からないことだらけであるが、仮説と検証という科学の方法は、確実にこれらの謎を解き明かす歩みを止めてはいない。いやむしろ加速している。

 科学に従事する側に身をおく者から見ると、科学がこんなにも頑張っているのに、なぜ宗教はこんなにも影響力を持つのか、との疑問が出ざるを得ない。
科学は、人間の生き方、死に方などに関わる道徳や倫理的なことがらに関して全く無力であり、その点で宗教が優れた影響力を発揮する事は分かる。しかし、明らかに科学の領域であろうと思われる事柄に関しても相変わらず影響があるように思う。いや、むしろ強まっているかもしれない。
社会と科学、あるいは人間と科学ということに関わる重要問題だ。これから、少しずつ、これらについて考えてみたい。まずは、宗教と科学から。
(つづく)


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ことば (7)縦と横、そして3つのカテゴリー

2012-07-21 16:34:08 | 人文
ことば (7)縦と横、そして3つのカテゴリー

ことばについて、特に文章について、いくつかの著者の見方について読みながら、記してきたが、少々、縦に記された文章に飽きて来た。
まだまだ、文と言葉についての手探り、思い、記述がつづくのだが(だって本棚にまだ一杯並んでる。なんでこんなに買ったのか不明)、テーマを変えようと思う。

その前に、日本語の縦書きと横書き。
横書きは、明治以降に西洋の言葉、アルファベットが大規模に入って来て、それにあわせて生まれたのであろうが(それにしても何で戦前は右から左へ書いた?和洋折衷方式?)
この2つが生み出す文化の違いは凄いし、それが同居していることも極めてユニークだ。
エッセイストの本を読んでそこでアンケートがとられている。縦と横、どちらに親しみを感ずるか?
圧倒的回答は、「縦」とある。
これだけで、私などは違和感を感ずる。
「え~!やっぱり横書きの世界は少数派なのか!」
それでも、会議の報告書やら、お役所の文書やら、ほとんどは横書きになっているような気がするがね~。


文系の作家の世界は、原稿用紙何枚ビジネスの世界で、その余白の設定が、仕上がり縦書き書き物の行間メッセージを決める。日本語縦書きの「あ・う・ん」文化はそうやって作られて来たせいなのだろうと改めて思う。秋に発行目指す書物を、はじめて400字詰め原稿用紙縦書きで書いてみて、改めてその面白さに気がつかされる。

ということで、とりあえずの、「ことば」シリーズ休憩に際し、このブログのカテゴリー大区分を、3つにすることにした。

「人文」
「社会」
「自然」

なにやら、大学の教養課程の科目大区分と同じだが、それが結局最も大局を捉えているのだと思う。細分は分散でしかない。
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ことば (6)純文章

2012-07-20 05:03:59 | 読書
自分づくりの文章術 (ちくま新書)
クリエーター情報なし
筑摩書房



純文章
 文芸評論家の清水良典氏「自分づくりの文章術」(ちくま新書)の中に純文章に注目せよと主張されている。清水氏は文芸評論家であり、私は小説等をほとんど読まない人間である。が、なぜか大変迫って来る。本棚にたくさん積んであった文章術本の中で斉藤孝氏に従い、線を引き付箋をつけて読んだ。


 そして、本書読書後、もはや人生に残された時間は少ないのであるが、このような視点でたくさんの文芸作品を読んでみたいと思うようになった。
 夜の地球を人工衛星から眺めた映像を見ると、人の住む街が光り、それがネットワークのように地球を覆う。それは清清水氏的視点、いやそこに引用されているSFの傑作「マトリックス」的視点からいうと言葉と文章の四次元空間といえる。清水氏が地球映像を引用していたわけではないが、その部分を読んだ時に私の中に浮かんだ映像だ。そこにはあらゆる情報が言葉として行き交って点滅している。そこには文章のジャンルわけもなければ、当然にも日本語だけではない。
 その言葉の構成要素が、単語の壁をちょっと超えた「純文章」。そこに注目せよというのが清水氏の主張である。文芸の世界は、小説、エッセイ、随筆、詩、紀行、ドキュメント・・などジャンヌ区分がややこしい。それを超えて「純文章」という視点から文芸全体の世界を再俯瞰、再構成したいというのが清水氏の野望だ。


そのエッセンスは、


自分にしか書けないことを、
だれが読んでもわかるように書く。
 それを発見すること、味わうこと、評価すること、そしてさらに自ら書くこと・・「純文章」による「自分づくり」(同書212頁)をしなさいと奨励している。徒然草のような断章の累積のすすめである。
 「文は人なり」ではなく「人は文なり」であり、「奴隷の作文」から解放されなさい、という主張。実に明快。この著者は時間を見つけてフォローしたいと思わせてくれた。

(つづく)
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ことば (5)処世術としてのことば技

2012-07-19 05:02:02 | 人間
処世術としてことば技
 大学受験、就職試験のみならず様々な応募において小論文を課すことがほとんどである。私どもの大学院の入学試験でも原稿用紙一~二枚程度の作文を課している。蛇の道はヘビ。それに応じて如何に書くかの処世のための文章技指南のための書もはびこり売れる。


私はめったに批判的書評は書かないのであるが、ちょっと眉をひそめてしまった書が二冊ある。樋口裕一「ホンモノの文章力」―自分を売り込むための技術(集英社新書)と和田秀樹「大人のための文章法」(角川書店)である。

 両者共に受験産業界で名をなした人である。前者は、「文は人なり」の理念とそれをもとにした小論文課題というリトマス試験紙には、「文は自己演出」というアンティテーゼで対応せよ、という提案である。求めに応じ相手にあわせて記せ、ということだ。自己演出を悪く言うと「自己ねつ造」。科学論文では、永久追放対象の文書となる。
 
後者は、東大理科三類という日本受験界最難関突破を売りに、現役東大生の時にその突破術指南本でベストセラーを書いた人である。
彼にも、私にはどうして受け入れられない主張がある。書き続けるためには世間(文章を求める側)にあわせた文章を書けるかどうかが鍵だというメッセージである。


 この両者に共通するのは、その場対応の処世術技としての文章技だ。文章は人生の中で蓄積されて行く。時とともに自然観も人間観も変わって行くものだ。しかしその時々に自分をごまかし、演技としての文章を蓄積しても、その場限りの嘘で塗固めたものとなり、全体としてみれば支離滅裂なものとなることは明白。

 これらの著者が本業でどれだけの仕事をなし、書き残しているか、その余技としての文章指南であるかだけが、文章術においても影響力が生まれるのだと信じたい。数ある文章術本の書評はまだまだ続くが、それらを読む私の視点は、そのことに尽きる。
(つづく)
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