楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

ルーツの旅(11) 滝蔵(7)

2024-10-08 08:33:48 | 人間
滝蔵の結婚

滝蔵の嫁になるヨシは、街道筋の隣家であることは(5)に記した。この二人が仲良くなるのは、大正二年のことだ。次男と次女の気軽さがあったのかもしれない。街道の谷間は二人の相引きには格好の自然のデート場だ。

出来ちゃった。ヨシが身重になった。大正三年春、未婚のまま子を産んだ。十八歳。
女の双子だった。

しかし、最初の子は死産。あとの子も三日後に亡くなった。

ヨシの名をとり、ヨシノ、ヨシエと名付け、丁重に葬られた。

ヨシと滝蔵との仲はあまりにも明らかで、両家にとって大騒動だった。

両家は、この二人を結婚させることにした。大正三年の瀬も押し迫った冬、滝蔵を分家させ、ヨシを籍に入れた。

二人の住む家は、本家の隣。

仲睦まじく暮らす二人に、大正五年春、待望の次の子が生まれた。

長男、司。

狭い谷間、本家から分ける土地はない。二人は、本気で自立への道を考え始めた。蝦夷へ。

(つづく)
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ルーツの旅(10) 滝蔵(6)

2024-10-06 06:00:00 | 歴史

北海道移住の模索

滝蔵が世帯をもったことをきっかけとして蝦夷地への移住を本格的に検討を始めた。
祖父の後妻筋の叔父叔母たちが既に十勝へ渡っている。二宮尊親氏と共に渡った知り合いもいる。
しかし、明治も終わり、十勝はもう開拓の地は予定され、移住の余地はなかった。

しかし、相馬と北海道とのつながりは、それだけではなかった。

札幌は、江戸末期には大規模な開発が始まり、碁盤の目を巡らせた設計がなされていた。
直線で新しく深い川を浚渫、泥炭地からの排水を計ることからはじまる大規模土木。札幌の創成川や新川として知られる。
その設計者の中心に二宮尊徳の門下生、大友亀太郎がいたのだ。

滝蔵が北海道への移住を決した時には彼は既にいないが、大友が実行した二宮尊徳、尊親の報徳仕法と相馬からの移住は、名を轟かせていたに違いない。それは人脈を形成していた。


(つづく)
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ルーツの旅(9) 滝蔵(5)

2024-10-05 06:00:00 | 歴史
自立への模索

尋常小学校を終え、高等小学校を終え、将来を決めなければならない。
男手の少ない本家で、山野から生産する仕事は事欠かない。
樹木の伐採、草刈り、薪集め、炭焼き。越冬作業の蓄積は男仕事だ。
田畑狭いながらも、米作は先祖伝来の本業。

田畑、山から生産したものは、宇多川沿いの山上村、時には相馬の中心地、中村までへも払い下げた。
子供時代のように、遊び回ることもできない。
やがて、徴兵検査となり、心身剛健な滝蔵は、甲種合格となった。
召集があれば、赴く覚悟はできている。農民といえども歩卒(足軽)身分を兼ねている。
将門家来の平安の昔からの、相馬の伝統は身についている。
しかし、招集はなく時が過ぎた。

二十歳も半ばになると、長兄の家長継承、滝蔵の嫁取りと自立の課題が本格化してきた。

宇多川、中村街道をさらに上流へ遡り、亘理伊達の領地(現宮城県)側へ入ったところに三男四女人も兄弟姉妹のいる家があった。国(藩)は違うが、滝蔵の家から見ると隣家だ。そこの次女のヨシが候補となった。器量良しの一八歳。 話も整い、時代も大正三年となった春。二人は一緒になった。

戸籍は、滝蔵筆頭の分家とした。しかし、住居は、自立した将来が確定するまでは、本家の隣においた。

この時が滝蔵の人生が最も輝いた時だった。新しい家族、器量良しの嫁。そして授かるであろう子供たちの将来。

滝蔵は、夢の新天地、蝦夷への移住を決意し、準備をはじめた。

(つづく)
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ルーツの旅(8) 二宮尊親(3)

2024-10-04 06:57:23 | 歴史
開拓からの凱旋帰還

尊親は、明治29年北海道開拓を決意し、明治30年、3月3日北海道、十勝の豊頃へ。明治33年まで、相馬から、総計114戸入植させ、陣頭に立ち寝食を忘れて指導に当たった。明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に戻った。

この間、東京から福島、仙台を通り青森に至る東北本線の鉄道も開通した。滝蔵のいたところから福島までは、中村街道に沿って約50km, 12里。歩いても12時間だった。北海道への移住経路も出来上がった時代だった。

尊親の率いた北海道開拓の成功談は、多くの相馬の人に夢を与えたに違いない。

家父長制で農家を引き継ぐのは長男のみ。
次男以下は、手に職をつけるか、男でのないところへ婿として行くか、手に職をつけるかしかない時代だ。
女子は、どこかへ嫁ぐか、貧しければ身を売られることも普通に行われていた時代だから、尚更だ。

開拓入植に際し、尊親は、開拓成功の10年後に返済できる借財を与え、成功の暁は自作農として土地もろとも授与す報徳仕法で成功させたのだから。生活の苦しさから博打や酒に走ることを許さず、毎夕その日の反省を交流させる厳しい仕法だったという。

この尊親率いる移住から凱旋帰還に至る時期は、滝蔵が八歳から十八歳に至る時だ。

狭い山間に喘ぐ、農家の次男坊にとって、開拓の成功の結果、1戸10町歩すなわち東京ドーム数個弱の田畑が手に入ることは想像もできないくらいの大きかったに違いない。

(つづく)
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ルーツの旅(7) 二宮尊親(2)

2024-10-03 06:08:59 | 歴史

恩人の孫からの「再恩返し」

江戸時代の飢饉は想像を絶する。飢えで次々と人が絶命する。地獄図の世界だ。天明・天保の飢饉は、冷害におそらく風水害も重なり、経済の根幹である米が実らず、幕府も関東東北地方の多くの藩も空前の困難に直面した。

小田原で成長した尊徳が、報徳仕法で実りを復活させた。武士農民が一体となった結果だった。小田原藩は武士身分にした。それが徳川幕府にもとどろき、現在でいえば国交省大臣に当たる普請奉行となった。その時に相馬藩から出向していた人が、甚大な被害のあった藩の復興への指針を請うた。尊徳は現地へ赴く余裕はなかったが報徳仕法を丁寧に示した。相馬藩は、復興を遂げた。

幕末、戊辰の内乱で徳川側の行末に暗雲が懸念された。相馬藩は、戦場となることが懸念された、日光街道の真岡から尊徳一家の疎開地として名乗りを上げた。恩返しだった。その中に孫の尊親がいた。

相馬で成長した尊親は、恩返しへの再恩返しを実行した。

(つづく)
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