北海道移住の模索
滝蔵が世帯をもったことをきっかけとして蝦夷地への移住を本格的に検討を始めた。
祖父の後妻筋の叔父叔母たちが既に十勝へ渡っている。二宮尊親氏と共に渡った知り合いもいる。
しかし、明治も終わり、十勝はもう開拓の地は予定され、移住の余地はなかった。
しかし、相馬と北海道とのつながりは、それだけではなかった。
札幌は、江戸末期には大規模な開発が始まり、碁盤の目を巡らせた設計がなされていた。
直線で新しく深い川を浚渫、泥炭地からの排水を計ることからはじまる大規模土木。札幌の創成川や新川として知られる。
その設計者の中心に二宮尊徳の門下生、大友亀太郎がいたのだ。
滝蔵が北海道への移住を決した時には彼は既にいないが、大友が実行した二宮尊徳、尊親の報徳仕法と相馬からの移住は、名を轟かせていたに違いない。それは人脈を形成していた。
(つづく)