起承転結と三つの法則
斉藤氏の指摘の中で、これまで私たちが教えられ、また文章を構成する時に使って来た「起承転結」にこだわることはなく、むしろ「3つの法則」を使う方がよろしいとの指摘は参考になる。
自然科学の分析ベースのレター論文は、Introduction(はじめに:目的と意義をかく), method(方法), result(結果), discussion(議論)として、いわば起承転結を明確にした構成を取る事がほとんどである。そして分野によっては、分析の対象を変える事で、大量に論文が生産される。
科学論文は、事実と論理を如何に明確に示しきれるかが問われる。私たちの分野でも最近では日本語で論文を書く事はほとんどなくなり英語で記す。人間の感情的な事柄を完全に排除する事実記載や論理的文章を記すには英語の方が向いているかもしれない。ただ、地質学のように、事実記載に数値的情報としての物理化学的や数学的情報のみならず言葉としての記載を含まざるを得ない場合は、正確に読者に情報を伝えるための表現の仕方が大事であり、難しい。
斉藤氏の指摘する「3つ」の法則とは、最初に結論を述べてしまい、その根拠として三つ挙げる、そして最後に再びその結論の意義のように構成しなさい、ということである。あるいは、最初に目的と意義を記し、事実もしくは根拠を3つあげ、最後に結論を記すという示唆である。
いわば、五部構成のすすめである。
起承転結は、中国の漢詩に見られるように、中国語のことば構成に関する古典的示唆なのであり、日本語の文章構成を考える時にそれにこだわる必要はないという。賛成である。論文でも、地質学の場合には、Introductionとmethodの間にsetting (位置づけ)という地球のどこのどのような場に相当するところという項目が入り、discussionの後にconclusionもしくはsummaryとする場合が多いし、私はそうしている。五部構成なのだ。
そういえば、俳句・川柳は五七五の三部構成、短歌は五七五七七の五分構成だなと思い出す。文章の構成をどのようにするのかは、恐らくそれぞれの言葉の持つリズムや、論理構成を反映しているに違いない。また、文章を読ませる対象や目的によってもこれらの構成は変わるのであろうと思う。“無味乾燥”の科学論文であろうと、何がしかのメッセージを人に伝えたい文章であろうと、変わりはないのだと思う。
人に伝えるいい文章を書こうとする時、エッセイがいいという。私は、ブログを日本語練習台として修行することにした。
(つづく)
斉藤氏の指摘の中で、これまで私たちが教えられ、また文章を構成する時に使って来た「起承転結」にこだわることはなく、むしろ「3つの法則」を使う方がよろしいとの指摘は参考になる。
自然科学の分析ベースのレター論文は、Introduction(はじめに:目的と意義をかく), method(方法), result(結果), discussion(議論)として、いわば起承転結を明確にした構成を取る事がほとんどである。そして分野によっては、分析の対象を変える事で、大量に論文が生産される。
科学論文は、事実と論理を如何に明確に示しきれるかが問われる。私たちの分野でも最近では日本語で論文を書く事はほとんどなくなり英語で記す。人間の感情的な事柄を完全に排除する事実記載や論理的文章を記すには英語の方が向いているかもしれない。ただ、地質学のように、事実記載に数値的情報としての物理化学的や数学的情報のみならず言葉としての記載を含まざるを得ない場合は、正確に読者に情報を伝えるための表現の仕方が大事であり、難しい。
斉藤氏の指摘する「3つ」の法則とは、最初に結論を述べてしまい、その根拠として三つ挙げる、そして最後に再びその結論の意義のように構成しなさい、ということである。あるいは、最初に目的と意義を記し、事実もしくは根拠を3つあげ、最後に結論を記すという示唆である。
いわば、五部構成のすすめである。
起承転結は、中国の漢詩に見られるように、中国語のことば構成に関する古典的示唆なのであり、日本語の文章構成を考える時にそれにこだわる必要はないという。賛成である。論文でも、地質学の場合には、Introductionとmethodの間にsetting (位置づけ)という地球のどこのどのような場に相当するところという項目が入り、discussionの後にconclusionもしくはsummaryとする場合が多いし、私はそうしている。五部構成なのだ。
そういえば、俳句・川柳は五七五の三部構成、短歌は五七五七七の五分構成だなと思い出す。文章の構成をどのようにするのかは、恐らくそれぞれの言葉の持つリズムや、論理構成を反映しているに違いない。また、文章を読ませる対象や目的によってもこれらの構成は変わるのであろうと思う。“無味乾燥”の科学論文であろうと、何がしかのメッセージを人に伝えたい文章であろうと、変わりはないのだと思う。
人に伝えるいい文章を書こうとする時、エッセイがいいという。私は、ブログを日本語練習台として修行することにした。
(つづく)