楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

トリプルパンチ

2006-09-30 01:45:55 | 生活
学会が終わってほっとしたのもつかの間。あっという間に1週間が終わった。

月曜日(25日)、不在中雑事処理で目一杯。

火曜日(26日)、来日中の外国人と打ち合わせのため、嵐の中、某所へ。この日は新しいデータを見て大興奮。夢想が膨らむ。外は嵐でも有意義な日。

水曜日(27日)ーやや不調の日。まず朝。出る時少々小雨。ま、いいかと甘く見て、勤務先の駅へつくと大雨。傘なし。大学へ着き、さ、仕事しようか、するとコンピュータがダウン!
<ぎゃー!締め切り原稿が!やむなくコンピュータ病院送り。今月末提出締め切りの論文修正に集中、それなりに充実していたのに。とほほ!> でも深刻なのは一日分だけだ、と気を取り直す。考え続ける。少し前へ進む。

木曜日(28日)ーこの日、更に最悪。朝。さ、いこうか、すると東京駅火災で、私の通勤路線、京葉線全面不通!
<うわ、大変!私の主催ではないが、おもしろい国際シンポジウムに間に合わない!>
でもニュースを見ると大パニック!<だめだ!よし、今日は車だ!>
でも、車も大渋滞。おまけに首都高速へはいったところで事故渋滞!ひる頃。大幅に遅れて到着。
朝の騒動でへとへとになり、シンポジウムを聞いている間にうたたね。
起きると何か、喉がおかしい。<む?風邪を引いたかな?そういえばちょっと寒かった>
午後、体調が更に悪化する。あわてて葛根湯を飲む。
<今日は早く帰らねば!>と思いつつ、締め切りはあるし、日曜日からまたワシントンへ飛ばねばならないので、無理をして10時まで。<まずいな、こんな体調で明日は確実に引っかかるぞ、健康診断!>
帰り道の車の中、咳が出始める。

金曜日(29日)朝から調子悪く、電車で行く気力なく、再び車で。
今日はスムーズだ!昨日と大違い。でも、朝、引き続くシンポジウムを聞いているうちにどうも熱っぽい。
抜け出してうるさく義務化した健康診断へ。案の条。<一度入院して軌道に乗せなさい。>
<あの~、あさってアメリカへ行かねばならなくーー、それから帰ってきたら中2週間で、今度は韓国の学会で講演せねばならず、12月はまたアメリカでーー、とても入院など出来る暇もなく--,学生諸君の研究もあるしーー>
<自分の体と仕事とどちらが大事なのですか?>
<あたまでは分かっているのですが、こころがーー>
(あれ?こころって頭のことか?)
風邪の熱か、ぼーとしてくる。午後、シンポジウムが結構面白い。夕刻5時、終わってビールを半杯。
<お!体調少し楽になるじゃん!やっぱり少々のアルコールは薬か!>
(でも、これって後からガク!とくるパターンだよな)と思いつつ。アメリカへ行って、いない間のことについて学生と少々相談。学生に<体、どうみてもヤバそうだ、と皆,言っているよ!>と説教される。
(やっぱり、そう見えるか?そうだろうな)と思いつつ、ビールを飲んでしまうweak minded professor.
やっぱり飲酒運転はまずいと、10時まで頑張る。
しかし、買ってきて、その時飲んだ風邪薬の注意書き。<薬を飲んだ後の運転はお控えください>
<うへ! でも薬の効き始める前には着くぞ!>
無事、帰宅。へろへろ!
あさってのワシントン行きは12時間、機内缶詰のきつい旅。本当にビジネスクラスにして欲しい、と思う。
<けちけち国際プロジェクトめ!12時間飛んで、時差ぼけをなくす暇もなく会議、そして、トンボ帰り、間に交流のためのコンパ、こんなの本当に体が持つのかね?> とこんな体調の時、愚痴がでる。
今日は総てを投げ出して、24時間、寝るぞ!
(あの、締め切りはどうなった?)誰かのささやきが聞こえる。
<もう知らん, 許せ!俺はスーパーマンではない!>


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ブッダの子捨て

2006-09-27 16:20:13 | 読書
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この新書もタイトルに引きつられて買った。ブッダが死んだ後,千年も経ってから日本へ伝わった仏教。それから更に1500年も経って変貌を遂げ、葬式とお盆にしか使われない仏教。モラルの教え、世界観や人間観があったはずの教えは、お題目や念仏にかわり、その意味さえも皆、忘れてしまったお経。
 一方、モラルの喪失が叫ばれる世相。宗教が力を失い、宗教によって激化する殺し合いの現代。2,500年前、仏教がそして儒教が生まれたアジア。2,000年前キリスト教が生まれた欧州。1,500年ほど前、イスラム教が生まれた中東。皆、死と病と人間の間のトラブルからくる苦しみをを最小にするためのものであったはずなのに。17世紀、ルネッサンスに引き継ぐ科学の成立はやがて合理主義と結び、フランス革命を経て、宗教を否定、マルクス主義による社会主義の壮大な実験を行った20世紀。しかし、その「科学」という名をまとった「宗教」も、より大量の殺戮と人間の死とともに消えた。そして現在は混沌の時代である。今、科学と人間の心をも包み込んだ、新たな「宗教」の創出が求められている。しかし神はいらない。奇跡もいらない。
 2,500年、いやプラトンやアリストテレスのギリシャの哲学の時代から人間はいかほども進歩していない、というのがいつもながらの感想である。通勤読書
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当地の彫刻と秋の花

2006-09-24 17:58:01 | 芸術
この学会は忙しすぎて、写真を撮る暇もなかったが、その隙までとった彫刻と花。


この地の有名な橋「ぼ~さん、かんざし」という悲恋の橋。

場所は移り、美濃の山中竹林と小手鞠の花。



そして、この季節、曼珠沙華

解散の地の駅の前。巨美
コメント (1)
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司馬遼太郎の考えたこと(1)

2006-09-23 18:52:25 | 読書
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10

新潮社

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嵐の学会作業の中で読んだ一冊。司馬遼太郎ものは随分と読んだが、そのきっかけは学生。現在さる大学で助手をしている、かつての私の学生との出会いはおもしろいものであったが、その学生はいつも本を読んでいる。見ると司馬遼太郎。私の人生は一貫して文学音痴。こったことがあるものと言えば、松本清張全て、森村誠一全て、西村京太郎ものなど推理小説だけ。
司馬遼太郎が亡くなった時、極めて多く報道されたが、私は1つも読んだことがなかった。なんでこんなに騒ぐのだ?と理解不能であった。そして、その学生がなぜそんなに凝って読むのかも理解できなかった。以来、私はさまざまな文学ものなどを隙間の時間に読むようになった。以来、何百冊読んだかわからないが、読書趣味が続いている。
 さて、この1冊。書かれた時代は私の幼き頃から小学生時代。司馬遼太郎はほぼ私の父の世代。そして、あの第2次世界大戦の修羅場からの生還者。私の父達の世代は、酒を飲むと軍歌を歌い、とんでもない修羅場であったのに、その時の青春時代を懐かしんでいる姿があった。私は幼心に<戦争なんて人がどんどん死ぬとんでもない怖い世界なのに、昼間は大人は皆、そういっているのに夜になって酒を飲むと、なぜ違うことをいって懐かしんでいるのか?わからん!>と思ったものである。昼は安保反対と叫び、キューバ危機で「戦争がまた始まるぞ!」と恐れているのにである。今は理解できる。命を掛けた青春であったからである。でも戦争は強制された命のやりとりであった。だからこそ、昼も夜もどちらも真実なのである。
 この司馬遼太郎もそのような修羅場から帰還者であった。そして青春はまさに戦争の時代。彼が明治以降は狂った日本の歴史と 認識し、人間それも変わった人間をこよなく愛し、歴史の中からそれを描き出すことを通してメッセイージを送り続けたことはつとに有名である。私はこのエッセイ集をゆっくり読んで、私の生きてきた道、父の生きてきた道、その時代、そして日本と世界、科学の世界と未来を考え続けていきたいと思っている。
 最初のエッセイ「請願時の狸ばやし」なんて最高!一気にこのエッセイ集に引き込まれた。
あすの休日は本屋へいって、その(2)を買おう。 
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嵐の日々の中の小嵐

2006-09-23 01:36:40 | 生活
 9日間に及ぶ学会、死のロードが終わった。ブログに書く暇もないほど忙しかった。台風も来て、そして去った。
学会後のワークショップ。ほぼ10年ぶりにやや我がままな友人と、外国人を呼びワークショップを開いた。途中で国内を飛行機で移動し、場所を変えて開くというやや異色なもの。そこでの小嵐話を1つ。
 ドイツ人。一銭のキャッシュも持たずに来た。事前に書類を整えればなんとかなったものを、締め切りを守らず、こちらの研究費を現金化することもできない。なんども書類の締め切りを守れとメールした。そして間に合わずにそのままやってきた。「こんなことは欧州ではありえない!invoiceだけで金は分かるだろう!」と叫ぶ。私は 招待した外国人の多くいる面前であえて声を荒げ、「欧州、日本、そんなことは関係ない!請求書(invoice)で額は分かるが、払った証拠(reciept)ではない!それでは払えないと秘書からいってあるだろう!あなたの国では請求書は領収書なのか?」と一喝。非はドイツ人の我がままにあることは他の人の面前で認めさせた。このように人の国を低開発国よばわりする輩はいつでもいる。世界を知らないものどもの哀しい姿である。かつて森鴎外を憤慨させたナウマンというドイツ人の傲慢な姿が一瞬、頭をよぎった。しかし、おかげで現金を全て私が立て替えるはめとなった。私は喧嘩を全面展開させることもやぶさかではなかったが、主催者として全体の雰囲気を維持することを優先させた。
 私は昔、この手の喧嘩をよくやった。アメリカ人、ロシア人、フランス人、中国人でも誰でも、「日本人は~~とか、日本は~~」とひとくくりにする物言いをする議論を私は大嫌いだからである。この手の物言いをする日本人も実に多いが、私は軽い冗談でも、そこに人を馬鹿にする話題を含むことは大嫌いである。人がそのような議論をしていると、
<ほらほらまたやってる、だから喧嘩になるんだよ。くくるときはほめるときだけにしときな>、と思う。
批判するときは具体的なことにとどめておけば良い。無用な一般化をするから殺し合いにまでになる。
 さて、実は私にそれを強烈に教えてくれた負けの喧嘩(というか喧嘩両成敗)が私にはある。私が昔、カナダに居たときのことである。そこはモントリオール。言葉は英語とフランス語が入り交じる。酒を飲むと大変である。途中まで英語で話していて、フランス語の人間が来ると完全に入り交じる。英語でさえよく分からない上に酒を飲んでいる。私には雰囲気だけしか分からなくなる。
 ある時、私はカナダ人に『日本では薄いコーヒーをアメリカンコーヒーという。そこで「ブランディー、氷で割ればアメリカン」というんだよ』と、当時のテレビコマーシャルのあるフレーズを紹介した。これが一緒に飲んでいたカナダ人に大受け、大爆笑であった。
 私は、<お!受けた。これはジョークがうまく言った>と思った。しかし、
ところが、一緒にいた、大学で同室のアメリカ人が突然立ち上がり、烈火の如く怒りだした。
『お前ら日本人は!、トヨタは!ーーー!』
 と訳のわからん英語でまくしたて始めた。ただでさえ分からないのにこんな早口、何を言っているのか分からん。私もかちん!と来た。「お前らはいつもでかい顔をして!このアメリカ帝国主義者が!~~」とかなんとか下手な英語で。
でも、どうもジョークで頭に来たらしい。当時は、バブルの絶頂。多くのところで日本人は確かに傲慢にもなっていた。私も。
 その時である。英語フランス語の完全バイリンガル、カナダ人がいいことをいっておさめてくれた。
「アメリカ人は、日本人は~~、というから駄目なんだよ、お前ら友達だろ?だったらそんな言い方は止めた方がいい」
私は、<お~~、なるほど、と思った>。 その時、カナダはケベックがカナダから独立するかどうかでひっくり返したような大騒ぎになっていた。皆そのことを議論していた。そのカナダ人はオタワの川縁で生まれ育ったという。そこは英語圏とフランス語圏を統一するために設けられた首都。ケベック州とオンタリオ州の境目にある。言葉の使いはじめから両方を使っていたのでどちらにも何のストレスもないという。彼はカナダの分裂騒動を悲しんでいた。カナダでは象徴的な人である。
 というわけで、それ以来、私は出身地や国をくくって人の悪口を聞くのがあまり好きではない。そのような議論を聞くと不愉快になるようになった。だから当然言わない。傷つけない程度の軽いジョークはいいが、<度が過ぎると喧嘩になるぞ~!>と思う。
 ところで肝心のワークショップの方は、なかなかおもしろいことを随分と気がつきさせてもらった。共催した友人も、そのドイツ人に負けず劣らず、我がままであるが今後の見通しを議論し、久々に楽しかった。本日、無事終了した。手伝ってくれた学生諸君、秘書さん、ご苦労さん。ありがとう。まだ後始末があるけれどよろしくね。
 
 
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