楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

あの戦争から遠くはなれて

2008-06-28 17:57:56 | 読書
あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅
城戸 久枝
情報センター出版局

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東京駅の書店、ドキュメントコーナーで手にした。大宅賞作品。
第二次大戦の評価をめぐって揺れ動く昨今、そこに生きた人間がいた、いや、まだまだ生きていることを置き去りにした、ヒステリックな単純化された議論が展開されている。そのようなありようはどこか変だと、思えてならない。

この著作は、残留日本人孤児を父とした娘が、その父の物語を追いかけ、歴史と国とに翻弄されながら前を向いて生きている確かな足取りを記している。そしてそれを受け継ぐ自分の生きる道を強いメッセージとして伝える。強い感動とさわやかな生きる勇気を与え、余韻の強く残る作品である。このような著作を書き記した著者とその意義を高く評価した大宅賞審査委員の識見に敬意を表するばかりである。

なぜ私はこの本を書店で手にしたか。
それは次の経験があったからである。

私は今から20年前、1986年と1987年、実は中国の旧満州、中国の研究者らとともに、当時はまだ外国人立ち入りが禁止されていた吉林省、遼寧省、黒竜江省へ行った事がある。学術的に中国大陸の大地の変動調査するのが目的であった。
私たちは外国人であり、北京からの研究者とともに、それぞれの村の招待所に宿泊したので、そこに住む人々の実際の生活など知る由もなかった。しかし、調査中にかいま見える人々の様子は、春秋戦国時代や三国志の時代と何も変わらないのではないか、と強烈に思わせるものであった。しかし、岩石などの調査対象、自然の風景以外の一切の撮影は同行した共産党の人によって制止された。

道はどろんこであり、水たまりはゴミ捨て場であり、それを大きな黒い豚が食していた。

そのとき私は思った。

戦前、同じように激しく貧しかった日本の農村から、「満州に楽園あり」との作られた宣伝によって、100万を超える多くの人が移り住み、壮大な悲劇へ突き進んだ。
そして、1986年にはもう既に風化してはいたが、小さな農村のレンガ作りの家の壁に残る「毛沢東万歳!」の文字。
それは、1960年代末から70年代、中国内部で吹き荒れた嵐であり、やはり多くの悲劇を生んだ、と伝えられる。
<ああ、こんな小さな村にも文化大革命は吹き荒れたのか!>と。

そこが、残留孤児問題の舞台であったことを後に知ることとなったからである。その現場に調査に出かけた時には<専門馬鹿>であった私には知る由もなかった。そして、そこは今、また政治と歴史に翻弄されている北朝鮮からの脱出の場である。

<先週、20年ぶりに北京に仕事で出かけ、一昨日帰国したが、驚くべき変化に目を見張った!>。


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癒しのナショナリズム

2008-06-16 20:39:54 | 歴史
“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究
小熊 英二,上野 陽子
慶應義塾大学出版会

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いま歴史をどうみるかを巡って、社会は揺れている。
いわゆる「つくる会」系の「自虐的歴史観脱却派」が圧倒的優位に見える。
そんななか、自虐派とレッテルを貼られた旧勢力ではなく、新しい流れはないのか、と気にしていたら、あるはあるは。
「つくる会」そのものを研究対象としている歴史学者たちがいる。
世の中、バランスのとれているものだと感心した。
しかし、このような流れは、圧倒的なネット社会では浮上していないし、街の本屋ではあまり見ず、専門書の並ぶ大学の本屋でしかお目にかかれないことがバランスを欠いている。圧倒的財力をもつ方が、草の根ナショナリズムを巻き込んで圧倒しているという現状がある。
こちらの方々も漫画でも書いたらいいのにね、と思ったりする。
しかし、歴史観を普及する気はないのかもしれない。

実は、先日本屋へ行ったら、かつての「国民の歴史」と同程度に厚い本がデーンと積んであった。
それはとても読む時間がないので、その著者とはどのような人なのかを知りたくて、この本を手にした。
いやはや、なかなか面白い。

ちょっと趣味の域を超えて来たかな?文系ってやはり生臭い事も研究対象とするので、大変だ。

なんてことを言ってられない現実が、自然科学、地球科学にも実は迫られているのだが。
科学と政治、科学と経済の関係の理解なくしてモラトリアムである時代は終わろうとしている。


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司馬遼太郎の日本史探訪

2008-06-16 20:05:08 | 歴史
司馬遼太郎の日本史探訪 (角川文庫)
司馬 遼太郎
角川書店

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昭和という時代の歴史観形成に巨大な影響力を持った司馬遼太郎。
それはサヨク的なものとは違っていた(当時のサヨクは、司馬を右翼的とさえ言っていたかと思う)。
この人の人の見方、歴史の見方を抜きにして昭和は語れない。
私はかつて、とある学生が司馬遼太郎にのめり込むのに接して、文系音痴から脱却し、ひきづられて、のめり込むようになった。

昭和という時代から随分と時間が経ち、司馬遼太郎も亡くなり、彼のメッセージは風化しつつあることが悲しい。
しかし、それも歴史というものなのだろう。
人間が歴史を見る目は所詮、ホイッグ的なのである。
(ホイッグ的とは、その時点時点にたってしか、過去を見る事が出来ないという歴史観のバイアスのこと)

この本は、歴史上の人物に焦点をあてた対談集である。
最後の対談は、明治開拓時代の北海道のフロンティア精神である。
わずか1年しか北海道にいなかったクラーク氏のインパクトはすごいものがある。
新渡戸稲造や内村鑑三など、武士の精神とキリスト教の精神を融和させ、日本人の誇りを打ち立て、一気に世界へ躍り出た。
内村鑑三のクリスチャンリベラリズムは、後に東大総長となった南原繁へも受け継がれた。
第二次世界大戦末期、日本帝国大本営東大設置を拒否し、戦後のアメリカ進駐軍本部のための東大キャンパス接収をも拒否し、厳然と学問の府の自由を守った歴史へとつながっている。

私は今、アメリカの地に出張できているが、その時代、外国へ出た人間のカルチャーショックを超え、未開国とのレッテルを超え、誇りを築き上げた先人にいつも感動を覚えてならない。
あすから会議、1週間。
頑張るぞ!久々にサイエンスだ!

ここは暑い!でも気持ちいい!


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歴史の不思議-意識的タブー?

2008-06-11 05:33:39 | 歴史
最近、人間の歴史に少々はまりぎみである。世の中、近代から現代に関して、声高に歴史を見直せ、という声が大きい。
しかし、歴史は時間が経つとどんどんバイアスが増幅する、と思っているので第二次大戦直後に育った私には、あまり興味はない。生き証人が山といた、その時の方がより真実に近いと思っている。

しかし、これぞ究極のバイアスではないか、と思うのは以下。

私は、そもそも日本のはじまり、日本人の起源に関してずーと変だへんだと、わからず、いまだどこの本でもお目にかかっていない、教科書にも全く書いていないことがある。(もちろん単なる趣味だから、読書数は全く少なく、きっとどこかの研究者は指摘していると信じたいが)。

今日はその1。

原日本人は縄文人であり、それはアイヌの人たちに引き継がれている。それは先の国会決議でもはっきりとした(決議をしたから真実という事ではないが、最近のヒトゲノム解読もはっきりとそれを示している)。

問題は弥生人だ。弥生人は渡来人。ということは中国大陸からきた。しかも、その時代は紀元前4~5世紀。その時代の中国は春秋戦国時代。すなわち、皆、殺し合いをしているのだ。すると、当然のごとく、大量の難民が発生する。それらは弱き人。まだ中国では文字は統一されてはいない。農業を携えてくるわけだから知識人ではありえない。

だから、時代が進んで、世紀が代わり、後漢の時代に朝貢して、王様(地方の親分)の印をもらうなんてことは弥生人にとってはあたりまえのことなのだ。そんなことも全く教科書には書いていない。

弥生人とは、その時の中国からの大量の難民なのだ、とはどの教科書にも全く書いてはいない。
最近のヒトゲノム解読は多くの日本人と中国北部の人たちとの共通性は極めて高い事を証明している。
すなわち、同族なのだ。

これを聞いて、エ?!と思う人が多いだろう。

嫌な思いする?それとも、「あ、そ」。
と受け流せる?
もし前者なら、そこにはなにがしかのバイアスが心の中にあることを疑った方が良い。
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疑似科学入門

2008-06-07 09:19:28 | 科学
疑似科学入門 (岩波新書 新赤版 1131)
池内 了
岩波書店

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この本は、科学哲学の欠乏している地球科学にとって極めて重要である。
先の連合大会で、地球温暖化を巡って大きな議論があった。
政治家やマスコミ人をよんで、セッションが連日展開されたのである。
その中でも、実は「科学とはなにか」、「疑似科学とはなにか」、ということがその底流に流れていたからである。
池内氏の論をまつまでもなく、科学を少しでもかじった者には第1種疑似科学、オカルトや迷信は分かりやすい。
そして、マイナスイオンなどの科学用語をちりばめた第二の疑似科学は時間がたつと化けの皮が剥がれる。
しかし、第三の疑似科学、すなわち複雑系の科学がからみ、科学自身に困難を伴っている未来予測が絡んでいる場合は、巧妙である。

先の地球温暖化と地球環境問題をめぐる課題はその最たる対象だ。

だからこそ、一層の科学哲学が求められている。
このテーマは科学が、政治の意思決定にはじめて本格的に持ち込まれた例でもあるのだ。

「複雑系に関わる第三種疑似科学は、体制や世間の趨勢に反発したくなる人が陥りやすい傾向がある。みんながいうことに簡単に迎合せず、疑って文句をつけてみるという意味ではけなげな精神の持ち主といえる。ーー。自分の物差しだけで世の中の寸法を測ろうとして、かえって自分が疑似科学化していることに気がつかないのである」(p176)


そして知る人ぞ知る池内氏のこれまでの生き様も良く自覚していて、
「私もそうでないか気をつけねばならない」(p.177)
とのいましめは、彼の明晰さをきわだだせている。

連合大会のときに、大きな反響のあったシンポジウム参加者にこの本を読んでの感想を聞いてみたいと思う。
私には大変納得のいく、そして時を得た著作であると思う。



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