日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書) | |
阿満 利麿 | |
筑摩書房 |
古本屋で見つけた一冊。ポストイットスティックの貼ってある頁があったが全体を読んだようには見えない。前の読者は若者だろう。神道と宗教の関係を知りたいと思ったのかもしれないのだが、途中で挫折し古本屋へ、か?。
著者は、Wikipediakによると、西本願寺系の末寺に生まれたとある。どうりで浄土真宗への突っ込みが多くを占める。
日本人の多くが宗教に関して頓着せず、正月の神社参拝、葬式お盆仏教、クリスマスキリスト教、結婚式はなんでもありと、無宗教的であることについて論じているのが本書。
科学と宗教についての直接の書ではないのだが、明治期に科学が突貫工事的に輸入した時期、その輸入先の西欧はキリスト教世界の葛藤を突き抜けた社会であったのだから関係がないとも言えないので、私の目に留まったのであろうと思う。
面白い。明治維新直後、神道が、仏教と分離のために廃仏毀釈を経て国家神道にするための強力な動きが起こる。富国強兵、殖産興業のために科学・技術の突貫工事的輸入を計る西欧社会からは、キリスト教認知の圧力がかかる。
そのような、国家神道化と内外の宗教解放圧力との矛盾の中から生まれたのが、神道無宗教論であり、それを仏教の側から論理的に支えたのが浄土真宗の「真俗二諦」であったという整理だ。真俗二諦とは命に限りがあるという本当の諦めと俗世間に合わせた処世の諦めの2つがあり、社会の中では俗諦でいけ、という処世術の教えらしい。織田信長による大弾圧により生まれた教えという。
明治以降、廃仏毀釈の後は「真諦」優位であったらしいが、天皇暗殺を謀ったとされる大逆事件に5人もの門徒が連座して死刑になった後、一気に「俗諦」論が優位となり、率先して神道無宗教論を担い、葬式仏教化を加速する事となったという。
かつて宗教は、「私たちはなにもの、どこから来てどこへ行くの?」の根本的問いかけに対しての答えも用意し、提供して来たが、いまはその問いに対する答えは科学が用意している。それはその宗教を信ずるかに関わらず普遍性を持つ。なぜなら科学の答えは、再現性を根拠としてなされ、信ずるかどうかではないからである。
一方人間のこころのありよう、人間関係のあるように関わる問いへの答えはいまだ科学の領域ではなく宗教の役割が圧倒的である。そのような視点から宗教全体を俯瞰すると面白いものが見えて来るはずだ。
書棚を見ると、日本宗教史、不思議なキリスト教、人間ブッダの生き方、ブッダななぜ子を捨てたか、禅と武士道、などなど並んでいる。それらの感想文がどこかに散らばっているので整理をしておかねば。