楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

科学と宗教 (4) 阿満利麿/日本人はなぜ無宗教なのか 

2012-08-27 00:44:41 | 歴史
日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)
阿満 利麿
筑摩書房


古本屋で見つけた一冊。ポストイットスティックの貼ってある頁があったが全体を読んだようには見えない。前の読者は若者だろう。神道と宗教の関係を知りたいと思ったのかもしれないのだが、途中で挫折し古本屋へ、か?。

著者は、Wikipediakによると、西本願寺系の末寺に生まれたとある。どうりで浄土真宗への突っ込みが多くを占める。
日本人の多くが宗教に関して頓着せず、正月の神社参拝、葬式お盆仏教、クリスマスキリスト教、結婚式はなんでもありと、無宗教的であることについて論じているのが本書。
科学と宗教についての直接の書ではないのだが、明治期に科学が突貫工事的に輸入した時期、その輸入先の西欧はキリスト教世界の葛藤を突き抜けた社会であったのだから関係がないとも言えないので、私の目に留まったのであろうと思う。

面白い。明治維新直後、神道が、仏教と分離のために廃仏毀釈を経て国家神道にするための強力な動きが起こる。富国強兵、殖産興業のために科学・技術の突貫工事的輸入を計る西欧社会からは、キリスト教認知の圧力がかかる。

そのような、国家神道化と内外の宗教解放圧力との矛盾の中から生まれたのが、神道無宗教論であり、それを仏教の側から論理的に支えたのが浄土真宗の「真俗二諦」であったという整理だ。真俗二諦とは命に限りがあるという本当の諦めと俗世間に合わせた処世の諦めの2つがあり、社会の中では俗諦でいけ、という処世術の教えらしい。織田信長による大弾圧により生まれた教えという。
 明治以降、廃仏毀釈の後は「真諦」優位であったらしいが、天皇暗殺を謀ったとされる大逆事件に5人もの門徒が連座して死刑になった後、一気に「俗諦」論が優位となり、率先して神道無宗教論を担い、葬式仏教化を加速する事となったという。
 かつて宗教は、「私たちはなにもの、どこから来てどこへ行くの?」の根本的問いかけに対しての答えも用意し、提供して来たが、いまはその問いに対する答えは科学が用意している。それはその宗教を信ずるかに関わらず普遍性を持つ。なぜなら科学の答えは、再現性を根拠としてなされ、信ずるかどうかではないからである。
一方人間のこころのありよう、人間関係のあるように関わる問いへの答えはいまだ科学の領域ではなく宗教の役割が圧倒的である。そのような視点から宗教全体を俯瞰すると面白いものが見えて来るはずだ。

書棚を見ると、日本宗教史、不思議なキリスト教、人間ブッダの生き方、ブッダななぜ子を捨てたか、禅と武士道、などなど並んでいる。それらの感想文がどこかに散らばっているので整理をしておかねば。
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「神も仏も科学もない?」 科学と宗教(3) 姜尚中 続「悩む力」

2012-08-01 21:28:37 | 人文
続・悩む力 (集英社新書)
姜尚中
集英社


 科学と宗教の関係を考える時に、科学と技術の持っていた影響力、ほとんど宗教のようだという現代特有の宗教観・科学観があるという。
先に記したように、生活の中に宗教的行事は根付き、無病息災、家内安全などを願うが、それを実現するためには、神仏に頼っても実現しないことは誰しも知っている、というのが一般的日本人の宗教観で、困った時の神頼み」とか「神も仏もない」とか、宗教を揶揄する日常熟語は山のようにある。
干ばつになれば、雨乞いをする、ということもなくなった。
病になれば、祈祷をする、ということもなくなった。
子を思い、お百度参りをする母親の姿もなくなった。
すなわち祈ってもご利益はないこと、信じても奇跡は起こらない事は、当たり前のように日本社会では根付いてしまったという。
そうなったのは、20世紀を通じての科学と技術の発展とその教育のおかげであることはいうまでもない。

 そういう現状は、20世紀、科学がある意味宗教に変わったと言っても良いという。自然界を理解する時には、宗教的神話よりも科学的説明を「信じ」、奇跡には神通力よりも科学的説明を求め信じる。自然界の科学的法則に基づく予言は間違いなく当たり、また解明された法則のみを使った技術は、画期的に人類の生活を便利にした。
 このことが宗教を駆逐し、「科学」宗教を布教させた。そして科学と技術を信じていれば、生活は豊かになり、明るい未来が保障されると誰しも思って来たと。

 その「科学技術神話」、「宗教」に大きな疑問を投げかけたのが、東日本大震災だったというのが、姜尚中が本書で記していることだ。
 もはや科学と技術では癒されないし、未来も明るくなるとは言い切れないというのだ。
 
 福島原発事故を見れば、一見、相当の説得力があるやに見える。

 姜尚中氏は大変影響力のある言論界のスターだ。私も「朝まで生テレビ」以来のファンであり、在日という日本社会では困難な中にあって多くの明快な論理で筋の通る言論を展開して来たと評価している。かれの超ベストセラーの前作「悩む力」や話題の「母」なども読んで説得されることがらも多い。

 しかし、今回の科学と技術に対する彼の論には賛成できない。あまりにも不確かな事の多いのが科学と技術であり、科学と技術が神に変わって信ずるに値する「信仰」の対象等とは、露ほども思っていないからある。科学・技術に対する限界が見えずに、そのご利益を享受して来た側から見ると大きなショックであったであろうと思うし、そう思わせてきたものがあるということもその通りだと思うが。

 姜尚中氏が本書中で「科学技術」と一続きのことばだったり、「科学・技術」と間に点が入っているのを混同して使っている事も、そのことを巡って科学者の間で真剣な議論のあったことをフォローしていない事を暗示している。彼の社会における科学と技術に対する認識の甘さが現れているのだと思う。決して揚げ足取りをしているのではない。
それを基にして、宗教の持つ意味を強調されてもバランスが悪いと思う。

 私は別の意味で宗教は今後も大変重要な役割を果たすと思っている。それはまた別途記したいが、その際に科学とはなんぞや、技術とはなんぞや、その意味を明確にせずに安易な「神も仏も科学もない!」などという並列化した「科学・技術」崩壊論には乗れない。
 
 科学とは、一部の自然現象を写し取りその因果関係を説明する論理を、再現可能性を根拠に真理と呼んでおくいうだけのものである。真理には限界があり、科学の発展により時とともに変わる。宗教で神の業といわれることでも、それが再現可能であれば真理と呼び、再現が不可能であればそれは証明されないので真理と呼ばないということである。ある宗教がそれは神の仕業であると解釈しようが勝手であるが、それを科学では真理とは呼べないと定義しているだけのことである。再現が証明された瞬間から真理の仲間入りをするのである。
 技術とは、科学で解明された真理を使って、人間に役立つように現象を再現する技のことである。役立つかどうかは価値観であり、それは人によって異なるものである。使い方によっては”悪魔の手”にもなるし、”神の手”にもなる。その価値観に、解明された科学の真理は一切組しないし、できない。「悪魔の手」を「科学の責任」であるかのようにすり替える事はできない。それは「技術の責任」なのだ。「科学技術の責任」とごちゃごちゃにしてはいけない。
(つづく)
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