*『ピアノマン』には騙された。外電を無批判にオーム返しする報道に騙された。
こんな『子供の使い』みたいな報道は報道の名に値しない。
*森元総理の『チーズ芝居』には騙された。彼に騙されただけではない。それを報じた御用記者らにも我々は二重に騙されているのである。
マスコミの人間は全て、チーズに関する知識は皆無だったのか?
それとも全てわかった上で、ポチ~森ラインの猿芝居に無条件で協力したのか?
いずれにせよ彼らは壊れている。
ここでも彼らは『大政翼賛報道』に徹したのである。
*駒大苫小牧には騙された。優勝してから発表するなんて最低だ。
*『報道2001』の竹村健一氏は相変わらず、パイプ片手に米英の新聞を持ち出してはそれを無批判に紹介して何かを言ったつもりになっている。これは昔からの彼のスタイルだが、今はそういう安上がりの評論が敬意を払って貰える時代ではない。英語中国語が全くわからない人でもインターネットの自動翻訳を使えばどうにかなってしまう時代なのである。
*昔の文学部教授などは、自分の専門分野の海外情報を小出しに紹介しては飯の種にしていた。現在の状況は知らないが、大学の研究室などは相変わらずの『学閥社会』らしいから似たようなものだろう。
*M・フーコーの『言葉と物』(1966年)には吉本隆明も松岡正剛も躓いている。
この著書はしかし邦訳が完成するまでに十年以上の歳月が費やされている。単にフランス語が出来るだけでは何ともならない著作らしい。哲学・歴史学を始め、凡そ『学』と名の付くものには精通した上で、尚且つ詩的イマジネーション豊かな人でないとそれこそ『翻訳不可能』に陥ってしまうのである。
*吉本隆明も松岡正剛も外国語は左程得意ではない人のようである。
松岡氏は埴谷雄高ともM・フーコーとも直接会って討論(?)している。フーコーと会った際には通訳を伴っていたというが、最後はオカマバー(?)に誘われそうになって逃げ出して来たらしい。
*吉本隆明が何故『言葉と物』を絶賛するのか、その理由は忘れた。
というか、私はそのことを知ったときにはもうかなりフーコーにかぶれていたから、そんなことはどうでも良かったのである。
*周知のように『言葉と物』を、フーコーはベラスケス『侍女たち』の解題から説き起こしている。『近代』というものが何たるかを、一幅の絵画の詳細な分析から語り尽くして(?)しまったのである。私はもうこの出だしだけですっかりこの哲学者に参ってしまった。
「参った狸は目でわかる」状態になってしまったのである。
尤もこのベラスケス『侍女たち』の謎解きは当時の流行だったということだから、M・フーコーは一種遊び心・悪戯心から「俺ならこう読み解くよ」とその卓越した分析力を開陳したものらしい。
*ポチのセンキョ劇場なんてほんとにクダラナイ出し物なのである。
こんな『子供の使い』みたいな報道は報道の名に値しない。
*森元総理の『チーズ芝居』には騙された。彼に騙されただけではない。それを報じた御用記者らにも我々は二重に騙されているのである。
マスコミの人間は全て、チーズに関する知識は皆無だったのか?
それとも全てわかった上で、ポチ~森ラインの猿芝居に無条件で協力したのか?
いずれにせよ彼らは壊れている。
ここでも彼らは『大政翼賛報道』に徹したのである。
*駒大苫小牧には騙された。優勝してから発表するなんて最低だ。
*『報道2001』の竹村健一氏は相変わらず、パイプ片手に米英の新聞を持ち出してはそれを無批判に紹介して何かを言ったつもりになっている。これは昔からの彼のスタイルだが、今はそういう安上がりの評論が敬意を払って貰える時代ではない。英語中国語が全くわからない人でもインターネットの自動翻訳を使えばどうにかなってしまう時代なのである。
*昔の文学部教授などは、自分の専門分野の海外情報を小出しに紹介しては飯の種にしていた。現在の状況は知らないが、大学の研究室などは相変わらずの『学閥社会』らしいから似たようなものだろう。
*M・フーコーの『言葉と物』(1966年)には吉本隆明も松岡正剛も躓いている。
この著書はしかし邦訳が完成するまでに十年以上の歳月が費やされている。単にフランス語が出来るだけでは何ともならない著作らしい。哲学・歴史学を始め、凡そ『学』と名の付くものには精通した上で、尚且つ詩的イマジネーション豊かな人でないとそれこそ『翻訳不可能』に陥ってしまうのである。
*吉本隆明も松岡正剛も外国語は左程得意ではない人のようである。
松岡氏は埴谷雄高ともM・フーコーとも直接会って討論(?)している。フーコーと会った際には通訳を伴っていたというが、最後はオカマバー(?)に誘われそうになって逃げ出して来たらしい。
*吉本隆明が何故『言葉と物』を絶賛するのか、その理由は忘れた。
というか、私はそのことを知ったときにはもうかなりフーコーにかぶれていたから、そんなことはどうでも良かったのである。
*周知のように『言葉と物』を、フーコーはベラスケス『侍女たち』の解題から説き起こしている。『近代』というものが何たるかを、一幅の絵画の詳細な分析から語り尽くして(?)しまったのである。私はもうこの出だしだけですっかりこの哲学者に参ってしまった。
「参った狸は目でわかる」状態になってしまったのである。
尤もこのベラスケス『侍女たち』の謎解きは当時の流行だったということだから、M・フーコーは一種遊び心・悪戯心から「俺ならこう読み解くよ」とその卓越した分析力を開陳したものらしい。
*ポチのセンキョ劇場なんてほんとにクダラナイ出し物なのである。