秦野、二宮、大磯、中井にものもうす~問題点検証します!

わが町の問題点をあきらかにし、住みよい町つくり。

若宮啓文・元朝日新聞主筆が客死

2016-04-29 12:47:14 | 日記
2016年4月28日 ASA


朝日新聞社で論説主幹や主筆を歴任したジャーナリストの若宮啓文(わかみや・
よしぶみ)さんが28日、訪問先の北京市内のホテルで亡くなっているのが見つ
かった。68歳だった。シニアフェローを務めている公益財団法人・日本国際交
流センターから家族に連絡があった。現地の警察当局によると、外傷はなく、病
死とみられる。北京で28、29両日に開かれる日中韓3カ国のシンポジウムに
出席するため滞在していた。

27日、ソウルから北京入り。同センターのスタッフと北京で合流したが、同日
夜から体の不調を訴えていたという。28日昼過ぎ、電話をしても応答がないこ
とを不審に思ったスタッフがホテルの従業員と部屋を確認したところ、浴室で倒
れていた。

~~中略~~

2002年に論説主幹に就くと、「闘う社説」を掲げる一方、国際社会の中で
日本がとるべき針路を改めて問うた。07年の憲法記念日に21本の社説を一挙
に掲載した「提言・日本の新戦略――社説21」を主導。憲法9条は堅持しつつ
も、新しい平和安全保障基本法で自衛隊の役割を位置づけるべきだと主張した。

小泉純一郎首相の靖国神社参拝では、読売新聞の渡辺恒雄主筆と雑誌「論座」で
対談。両紙を代表する2人が足並みをそろえて「参拝反対」を訴えた。

朝日新聞退社後も追い続けたのは、日本の保守政治の「アジア観」だった。

日中韓を中心とする国際交流に尽くし、韓国の大手紙・東亜日報にもコラムを
書いていた。



【朝日誤報問題】
櫻井よしこ VS 朝日新聞元主筆・若宮啓文 「朝日のOBは全く反省していない」
BSフジ【プライムニュース】2015(2/6)

「終戦70年」、そして「日韓国交正常化50年」を迎える2015年。アジア外交で
は“安倍談話”の内容など、歴史の向き合い方が再び焦点となりそうな気配だ。
安倍政権は、そしてメディアは、どういう基本姿勢で臨むのか。ジャーナリスト
櫻井よしこ氏と、朝日新聞元主筆の若宮啓文氏を迎え、徹底議論する。

(一連の誤報問題をどう思う

若宮氏「大変恥ずかしい話だ、社長まで辞める事態になり朝日新聞は反省して
いる。虚言癖のある吉田の懺悔を鵜呑みにして何度も報道したが、プロのジャーナリスト
としては、もう少し慎重に真偽を見極めるべきだった。」

「97年の(慰安婦への責任を書いた)検証記事は、全体的には良い企画だったし、
吉田清治証言も修正したが中途半端。もう少し訂正出来なかったのか。櫻井さん
など多方からの質問状にもちきんと対応していれば良かった。」

「吉田清治証言の取り消し方も謝罪もなく潔くないし、池上コラム問題も火に油を注
いだという流れ。大きな処分もあり新体制になったので、そこはご理解頂きたい。
卒業生としてそういう思いだ。」



櫻井氏
「吉田清治証言を取り消したとされる、例の去年8月の慰安婦特集の記
の件だが、第三者委員会の検証報告には非常に気になることが書いてある。

朝日新聞が2014年8月に検証記事を書いた理由は、安倍さんが再び総理になり、
2014年2月中旬頃から政府による河野談話の見直が実際に行われた場合、改めて
朝日新聞の過去の報道姿勢が問われる事になるいう危機感が高まった。
慰安婦問題の本格的な検証を、朝日も行わざるを得ないという考えが経営幹部を
含む社内に置いて強まってきたと。」

「で、近著"朝日新聞/文春新書"という本には、内部を知る朝日新聞の有志
記者達が何人かで書いた証言でもっとハッキリ書いてある。」



「(どういう報道をしたかという)取材班の目的は"攻め"・・・取材班の当初の
目的は吉田清治証言の信憑性の結論を出す事ではなく、あくまでも"従軍慰安婦"の
強制制を検証し、これまでの朝日の報道が間違っていなかった事を証明する為の
チームだった。むしろ"攻め"の姿勢で安倍政権の朝日包囲網に立ち向かおうとしたと。
つまり朝日は自らの記事が間違っていたという所から出発していたのではないの
だなと。河野談話を検証されてしまったら困るから。」

「本には、検証していく内にどうしても吉田清治証言にぶち当たってしまうので
これが虚偽だという事はもう避けて通れない。しょうがないから16本の記事を取
り消したという事。」

「もう1つは、朝日は97年の『(吉田清治証言の)真偽は確認できない』という
検証記事までは、狭義(無理やり・脅し等)の強制連行から広義(女性の気持
ちに反して)へとが変えたと。」

「当時、私は慰安婦問題を激しく書いていたので朝日新聞もしつこく批判もして
いた。若宮さん(当時政治部長)が『櫻井さん達が余りにも虚偽だ。ウソを書い
たと言うので、若手記者が動揺している。彼らを納得させる為に検証した』と
言った。私は『ずるいじゃないか。狭義の強制制で日本が悪い事をした。強制
連行だからいけないと言ったのに、精神的なものとしてというのは論点のすり
替えだ』と言った。今回の第3者委員会の報告でさえ、97年検証記事では狭義から
広義へと変わった。これは論理のすり替えであるとちゃんと書いてある。若手記
者の為という誤魔化しは、言論人として正直じゃないし誠実じゃない。」

若宮氏「だいたい憶えている。"朝日新聞"という朝日の有志で書いている本は、
中に居なくちゃ分からない事も書いているが、一知半解のものもある。
私も1ページ出てくるが、明らかに事実誤認で名誉毀損ものの表現があり文春新書
にも抗議している。なので全般的に信憑性を感じない。
(狭義・広義は)実は97年に急に変えた訳ではない。93年の河野談話は吉田清治
証言は入ってない。だが騙したり、様々な全体的に強制制はあったと。
その頃から朝日新聞はあっこういう事かと。その路線に従って書いていた。朝日
新聞は吉田証言だけじゃなく、慰安婦さんの証言の紹介している。
97年にそれをもう一度しっかりと検証しないと、うそ・デタラメだけ書いている
ように攻撃されていたからそうじゃないと、河野談話にあるような実態があった
と、社内の動揺もあったかも知れないが、読者に向けて発信した。その時に、吉
田清治証言は虚偽だったと秦郁彦氏の研究なども使ってしっかり書いていれば良
かった。ただあの時は、吉田さんはまだ生きてて(笑)全面否定していなかった。」

櫻井氏「今の話を聞いて朝日新聞の読者は気の毒だと思う。こんないい加減な取
材基準で紙面を作って800~900万部で一応朝日新聞は日本を代表するメディアだと
評価され、なんで安穏としていられるのか。若宮さんは友人だが腹が立つ。

97年に植村隆氏を訪韓させて取材させている。その前に秦郁彦さんや現地女性記
者が全否定していた。あの時点で虚偽が朝日新聞の取材力で確認できなかったの
は無責任か、全く能力の無いボンクラ記者が揃っているという事。
これは吉田清治さんが存命だったからという問題ではなく、幾百万の人の名誉、
現生・これからの日本人の名誉に関わる事だ。そこは真摯に間違いを認めなけれ
ばメディアを名乗る資格がないと思う!」

若宮氏「ですからぁ(笑)、去年の夏以降厳しく反省しているわけで」

櫻井氏「そこも、どうやら河野談話見直しが政府によって行われるので、朝日新
聞が書いてきた事も検証しないと危ないねという発想から生まれている。検証と
この本と同じことを言っている。」

若宮氏「その意味は、河野談話見直しの動きが、あたかも朝日新聞によって間違
った談話が出来たという人が多いので、じゃあ河野談話検証の中で朝日新聞は何
を主張してきたのかをきちっとしておかないと、河野談話と関連付けて議論され
ちゃってると。

朝日新聞が吉田清治証言を報じたから河野談話が出来たという大変な誤解が広が
っているから。朝日新聞の報道は総じて間違っていない。本当の間違いは吉田証
言を大きく報じた事で、慰安婦を強制的にひっぱったから問題だと誤解を与えた
事。不幸な女性達に報いるという日本の取るべき方針・本質・全体が貶められた
のは一番残念だ」

櫻井氏「まっったく朝日新聞のOBは反省していない。朝日新聞の報道はほぼ間違
っていなかったと(呆)。



最大部数減少は朝日の8.8万部減

日本の新聞の凋落が止まらない。日本新聞協会が集計した2015年10月時点での
新聞の総発行部数(一般紙とスポーツ紙の合計)は4424万部と1年前に比べて
111万部も減少した。ピークは1997年の5376万部だったから、18年で950万部減っ
たことになる。朝日新聞が突出した減少を示しているが、それでもマイナス



4.27%に限られる。とはいうものの、朝日新聞の経営は苦しさを増しているようだ。
朝日は原発に関する「吉田調書」、いわゆる従軍慰安婦に関連する「吉田証言」
の2つの誤報が一部で不買運動に発展し、部数を大きく減らすのは確実だとみら
れていた。

朝日の廃刊と地震はいつ起きても不思議でない。


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【チェルノブイリ原発事故30】

2016-04-26 14:45:30 | 日記
2016.4.26 産経

隠蔽され、いまも続く兵士ら80万人の「地獄」…線量計なく手で除去
現在のチェルノブイリ原発。新たなシェルターで覆う準備が進められ
いる=21日、ウクライナ北部チェルノブイリ



旧ソ連(現在のウクライナ)・チェルノブイリで発生した史上最悪の原発事故か
26日で30年。当時、ソ連政府はリクビダートル(事故収束作業員)と呼ばれる
約80万人もの兵士や消防士らを事故処理に投じた。深刻な事故の実態が隠蔽さ
続けるなか、ずさんな安全管理のもと作業を行った彼らの多くは今も、病を抱え
体で当局や社会の無関心と戦っていた。(キエフ 黒川信雄)

「鎮火まで現場を離れるな」

「当時20代だった私が、どれほどの責任を負わされたか分かりますか」

1986年4月に事故を起こしたチェルノブイリ原発4号機では、その約1カ月後
に再び火災が発生した。当時のゴルバチョフ政権が公にしなかった、この火災の消
火作業に携わったグトコフ氏(59)は今年4月、モスクワ市内での講演で学生
にそう語りかけた。



消防隊員は最初の事故で6人が死亡。「鎮火まで現場を離れてはならない」との
則を守ったからだという。

グトコフ氏は放射線から部下を守るため、規則を破り、交代で消火を行った。その
結果、部下らは「被曝で後に発病したが、すぐに死ぬことはなかった」という。グ
トコフ氏自身も心臓の病を抱える。

講演後、グトコフ氏に「自身の体を守るような装備などはあったのですか」と聞く
と、「何にもなかったよ」と答え、首を振った。

15数えて現場から離脱

「まさに地獄だった」。収束作業を撮影するため、事故1週間後にチェルノブイ
に入った映像プロデューサーのシネルニコフ氏(78)は、高線量の原発の屋根
の上にいた作業員の姿を思い出し、そうつぶやいた。

~ 省略 ~

チェルノブイリを訪れて 客員論説委員・千野境子

チェルノブイリをいつか訪れたいと思ってきた。あの1986年4月26日のニュ
ースを北欧発の外電が世界に初めて伝えた日の夜、私は外信部のデスクだった。



朝刊最終版ギリギリの時間で、「ソ連で原発事故?」「数千人死亡か」などの一報
を半信半疑で出稿したことを覚えている。格納容器のない裸の黒鉛減速軽水冷却炉
は、大量の放射能はじめ放射性物質を放出して被害を拡大・広域化させ、ソ連崩壊
へのダメ押しをしたのだった。

ウクライナ政府は5年前から観光客の受け入れを認め、昨年は内外から約1万5千
人が訪れたという。私が訪ねた3月下旬も十数人の欧米人グループの姿があった。

時が完全に止まった過去と、淡々と時を刻む今が併存する、チェルノブイリは世界
でやはり特別の空間である。

原発から2・5キロ、従業員と家族5万人が暮らしたプリピャチは、アパートから
ホテル、レストラン、劇場、ソ連時代の社会主義ポスターまで何もかもそのままだ。
小さな空き地の遊園地にある観覧車やブランコを眺めていたら、子供たちの歓声が
聞こえてきそうな錯覚にさえとらわれた。



しかし案内役のミーシャ君が線量計を遊園地の地面に近づけると、途端に警音が鳴
り始め、8マイクロシーベルトを記録した。彼は「事故の3年後に生まれ、事故は
知らない。でも原発に興味があるし、毎日新しい人に出会えるこの仕事が好き」
言い、「放射線量は大丈夫?」との問いにも「管理しているから問題ないよ」と
託がなかった。

原発作業員同様に15日働き、15日休む。4日働き3日休むパターンもある。
日頃は約100キロ南の首都キエフに住み、原発の勉強もしている。だから
どんな質問にも丁寧に答え、「福島はどうなっていますか」と日本の状況にも関心
を示すなど仕事熱心で真面目な若者だった。

~ 省略 ~


セシウム残留高が福島の10倍とも30倍とも・・・








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安倍首相が被災地視察、避難所を訪問

2016-04-23 18:40:37 | 日記


TBS系 4月23日(土)

安倍総理は23日朝から、一連の地震により大きな被害を受けた熊本の被災地を
訪れています。





早朝に東京を出発した安倍総理は、甚大な被害が出た熊本県の益城町や南阿蘇村
を自衛隊のヘリを使って上空から視察し、救助活動に当たった警察や消防隊など
を激励しました。

「心配でしょうけど、しっかりと応援していきますから」(安倍晋三総理大臣)



その後、南阿蘇村の避難所を訪問して被災者1人1人と対話し、避難所での生活
の様子などについて詳しく話を聞きました。

安倍総理は、このあと熊本県庁を訪れ、県の幹部から被害状況や復旧作業の進捗
などについて説明を受けます。また、益城町の建物の倒壊現場も訪れる予定で、
視察の結果を踏まえ、政府の復旧対策を決めることにしています。

安倍首相、地震発生後初の熊本入り 避難所訪れ要望に耳を傾ける
フジ(FNN) 4月23日(土)



熊本地震から10日目の23日、安倍首相は、地震発生後、初めて熊本入りした。

安倍首相は「救助・救命作業に尽力をいただき、皆さまに衷心より感謝と敬意の
念を表したい」と述べた。

南阿蘇村に入った安倍首相は、被災者の救助にあたる警察、消防、自衛隊の各部
隊と国土交通省の緊急災害対策派遣隊を激励した。
そして、避難所を訪れ、被災者1人ひとりの手を握り、「何か足りないものはな
いですか」と声をかけ、要望に耳を傾けた。





能年さんの応援イラスト


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東京のアンテナショップ「銀座熊本館」で支援の輪

2016-04-20 19:11:26 | 日記






熊本県の地震の被害を受けて、東京都内でも支援の輪が広がっています。

およそ1000種類の特産品を扱う「銀座熊本館」。商品を購入することで、少し
でも被災地を支援したいと、この週末、多くの客が集まりました。

「8000円いくら。目につくものを、やたらにたくさん買いました」(女性客)

「何もできない悔しさみたいなものもあるので、物を買うことで何か被災地に貢献
できればなという思いです」(熊本出身の男性客)

16日には30年前のオープン以来最多となる1日3000人が訪れるなど、この
週末は普段の2倍の人出となりました。店内には募金箱も設置され、多くの人が募
金をしていました。



「これだけ多くのみなさんに熊本のことをご心配いただき、支援していただきたい
という気持ちがあるということで、胸が詰まる思いでいっぱいです」(県庁から
出向している職員)


--------------------------------------
銀座の「熊本館」盛況 特産品購入で被災地支援

2016年4月19日 西日本新聞

熊本の特産品を買って被災地を応援しようと、東京・銀座にあるアンテナショップ
「銀座熊本館」にたくさんの人が訪れている。19日夕は混雑を避けるために入店
が制限され、店の前に約50人の列ができた。



熊本館は馬刺しやラーメン、PRキャラクターのくまモングッズなど約千点を販売
する。地震の影響で15日は休業したが、営業を再開した週末の16、17日は通
常の倍以上の約6100人でにぎわった。



佐賀市出身で東京都内に住むアルバイト女性(50)は「佐賀市にいる妹は地震の
たびにおびえていて、人ごととは思えない。少しでも被災地の力になりたいと思っ
て来ました」。熊本県東京事務所の堀敦博くまもとセールス課長は「たくさんの方
からお見舞いと励ましをいただき、胸が熱くなります」と話した。



困難なときの助け合い、いいですね。

ウマ刺しというのがほっこり。イルカとウマはまだ食べたことありません。

熊本のミカンが一番わが町のスーパーで売っている定番。よく見かける。

辛子大根などの野菜や球磨焼酎が名物のようです。

あとクマモンぐっず。










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ラディアンが災難時活用されるべき理由

2016-04-17 16:15:06 | 日記




東日本大震災のときには、避難所として解放するどころか、館内にいた利用者
まですぐに追い出して、内から施鍵までして一人たりとも入れないという態度
をとった。たぶん、館長やスタッフの身内・保身優先で帰宅させるために、他人
のことを構ってる余裕などないということなんでしょう。公僕として働き給与を
もらている以上は館長としての心構えはけしからんです。






公共の安心安全や不安を軽視し個である自己保身を優先させたと非難されて
当然です。当時の館長や町長の判断はいまもって糾弾すべき案件である。町民は
看過してはいけない。公共施設の災害時の利用を促すのに参考になる記事です。

「無理にでも避難所に連れて行けば…」自宅の母、犠牲に
朝日デジタル




14日夜に震度7で8人の死者を出した熊本県益城(ましき)町を16日未明、
再び激しい揺れが襲った。わずかな違いが、生と死を分けた。

16日午前1時25分ごろ、益城町宮園の中学校教頭、木下琢磨さん(55)は
木造2階建て1階の居室で寝ていた。突然の揺れに驚き、目を覚ました瞬間、
「バーンッ」という大きな音が家中に鳴り響き、2階部分が崩れ落ちた。



「このままでは死ぬ」。両手で頭を抱えて身を小さくした。暗闇の中、目をこら
すと隣の部屋で充電していた携帯電話が光っている。光を頼りに進むと、勝手口
に通じる空間ができていた。食器を置いた棚が崩れて斜めになり、小さなスペー
スを作っていた。



10分ほどで外に出ると、娘2人が待ち構えていた。肩を借り、町役場に逃げた。
娘たちには前夜、屋内は危険だから車の中で休むよう伝えていた。「わずかな
すき間があって何とか助かった」

益城町安永では16日昼前、坂田龍彦さん(75)の自宅で、つぶれた1階から
動かなくなった女性が運びだされた。妻由理子さん(68)の母山内由美子さん
(92)だった。



前夜は1階に母、2階に夫婦が寝た。地震で1階は一瞬でつぶれた。暗闇の中、
由理子さんは「お母さん、お母さん」と必死に叫んだが、返事はなかった。



14日は一晩、車で過ごした。その後、自宅がいいと思った母は避難所に行くの
を嫌がった。「無理してでも連れて行けばよかった」と龍彦さんは悔やんだ。
由理子さんは「昨晩もいつもと同じように食事をして、いつもと同じように別れ
た。まさかこんなことになるなんて」と肩を落とした。

身につまされる話ばかりです。当時、不安になって公共施設であるラディアンに
駆けつけた町民は少なくなかったはずだ。せめて余震が収まる間だけでも安全な
場所にいたいと思うのは共通の意識です。そういう心持ちがわからない人間は為
政者になる資格はないと考える。いや、人間としても最低の部類である。




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