家を出てから30分で、門真の大楠めぐりは、堤根神社の楠、稗島の楠の2つをクリア。
続いて三島神社の大楠を見て要した時間はほぼ1時間でした。
近場の方は一度実物を見られることをおススメします。
カメラにはおさまりきれない巨木のエネルギーをじかに感じてみてください。
薫蓋樟(くんがいしょう)
大阪府最大の幹周の巨樹で、昭和13年5月30日に国の天然記念物に指定。
第1回目の大阪緑の百選の投票でもダントツ1位だったようです。
樹齢少なくとも千年以上、今なお成長中だとか。
幹周12.5m、樹高30m、枝張りは東西へ34m、南北へ33m、
拝殿も境内も、巨大なクスノキに覆いつくされています。
社殿と一体となり、葉がおいしげる季節は緑の蓋を掛けたように美しい様から薫蓋樟(くんがいしょう)と呼ばれます。
三島神社はこの木を境内に位地するように建てられたそうで、
昔からこの地域に根ざした存在だったそうです。
楠の根元には、左少将・千種有文(ちぐさありふみ)の歌碑が立ってます。
公武合体派と目され尊攘派志士から奸臣として弾劾された幕末のお公家さんです。
「村雨の雨やどりせし唐崎の 松におとらぬ楠ぞこのくす」
石碑からは読み取れませんが境内の説明板に書かれてあります。
ところが門真市の名所、史跡、文化財では次のようになっています。
「薫蓋クス」の名称は、根元にある左少将千種有文の歌碑「薫蓋樟 村雨の雨やどりせし唐土の 松におとらぬ楠ぞこのくす」が由来になっています。
これがコピペであちこちのサイトで使われています。
唐崎が唐土と変わってしまった理由は何かあるのかな。
たぶん正しくは唐崎でしょうから、訂正された方がいいのではないかと。
近江八景の一つとして有名な「唐崎の松」
唐崎神社の社殿の後方に一目でそれと解る松の大樹があるそうです。
これが古より歌い継がれています
・紀貫之「唐崎の松は扇の要にて 漕ぎゆく船は墨絵なりけり」
・柿本人麿「さざ波の志賀の唐崎さきくあれど 大宮人の船まちかねつ」
・松尾芭蕉「唐崎の松は花より朧にて」
クスノキの右側に白髪大神を祀った祠があります。
白髪明神って琵琶湖ほとりの石山寺で見た神様の名前です。
堤根神社では右手に白龍大神の社がありました。
古代 、仁徳天皇が淀川の氾濫からこの地方を守るために、渡来人達に茨田堤(まんだのつつみ)を築かせています。
なみはやドームのある三ツ島あたりでは、輪中(わじゅう)と呼んで、堤防で水田が囲まれました。
堤根神社の西側が「伝茨田堤」史跡の追加指定を受けています。
続いて三島神社の大楠を見て要した時間はほぼ1時間でした。
近場の方は一度実物を見られることをおススメします。
カメラにはおさまりきれない巨木のエネルギーをじかに感じてみてください。
薫蓋樟(くんがいしょう)
大阪府最大の幹周の巨樹で、昭和13年5月30日に国の天然記念物に指定。
第1回目の大阪緑の百選の投票でもダントツ1位だったようです。
樹齢少なくとも千年以上、今なお成長中だとか。
幹周12.5m、樹高30m、枝張りは東西へ34m、南北へ33m、
拝殿も境内も、巨大なクスノキに覆いつくされています。
社殿と一体となり、葉がおいしげる季節は緑の蓋を掛けたように美しい様から薫蓋樟(くんがいしょう)と呼ばれます。
三島神社はこの木を境内に位地するように建てられたそうで、
昔からこの地域に根ざした存在だったそうです。
楠の根元には、左少将・千種有文(ちぐさありふみ)の歌碑が立ってます。
公武合体派と目され尊攘派志士から奸臣として弾劾された幕末のお公家さんです。
「村雨の雨やどりせし唐崎の 松におとらぬ楠ぞこのくす」
石碑からは読み取れませんが境内の説明板に書かれてあります。
ところが門真市の名所、史跡、文化財では次のようになっています。
「薫蓋クス」の名称は、根元にある左少将千種有文の歌碑「薫蓋樟 村雨の雨やどりせし唐土の 松におとらぬ楠ぞこのくす」が由来になっています。
これがコピペであちこちのサイトで使われています。
唐崎が唐土と変わってしまった理由は何かあるのかな。
たぶん正しくは唐崎でしょうから、訂正された方がいいのではないかと。
近江八景の一つとして有名な「唐崎の松」
唐崎神社の社殿の後方に一目でそれと解る松の大樹があるそうです。
これが古より歌い継がれています
・紀貫之「唐崎の松は扇の要にて 漕ぎゆく船は墨絵なりけり」
・柿本人麿「さざ波の志賀の唐崎さきくあれど 大宮人の船まちかねつ」
・松尾芭蕉「唐崎の松は花より朧にて」
クスノキの右側に白髪大神を祀った祠があります。
白髪明神って琵琶湖ほとりの石山寺で見た神様の名前です。
堤根神社では右手に白龍大神の社がありました。
古代 、仁徳天皇が淀川の氾濫からこの地方を守るために、渡来人達に茨田堤(まんだのつつみ)を築かせています。
なみはやドームのある三ツ島あたりでは、輪中(わじゅう)と呼んで、堤防で水田が囲まれました。
堤根神社の西側が「伝茨田堤」史跡の追加指定を受けています。
門真の住民としてお礼申し上げます↓
薫蓋樟は大阪緑の百選で1位でした。
これはみんなでハガキを出して頑張りました。
当時は青年会議所の若手?で一日100枚を目標に毎日送りました。婦人会などの協力も得て
結果的には、2位が砂子の桜、3位が京阪電車萱島駅の楠の木、と言う結果には驚きましたけどねヽ(^^)(^^)ノ
三ツ島神社の宮司の名前は私の名字を引っ繰り返した名前ですが、神社のとなりにあるお寺の住職は楠本さんでして、元保護司会会長です。
そう言えば前会長は小笹さんと同行でしたね
これからも門真をご贔屓に…(/_・)/
門真の親戚も保護司会元会長もご存知でしたか。
悪いことできませんね。
親戚の家の隣は、あの元総理大臣幣原喜重郎邸だったと聞いています。
大阪緑の百選の投票にはそんないきさつあったのですか。
門真は役所のホームページもよくできてて、じっくり読ませてもらってます。
門真って歴史ある文化の高いところだったことを、今になって知りました。
樹生が強いように思えます。
あと唐崎が唐土と変わってしまった理由は
ウイキペディアの間違いだと思います。
ところで白髭神社の祭神は猿田彦命か武内宿禰のどちらかだと思います。
ぜひ一度足を運んでみたいと思っています。
調べていて大阪市東住吉区桑津にある
桑津天神社に行かなければと思っていたところでした。
仁徳天皇が一目ぼれした日向の髪長姫を妃に迎えるように
段取りしたのが武内宿禰だそうです。
この髪長姫はもともと仁徳天皇の父の応神天皇に
輿入れするはずだったのです。
この髪長姫が少彦名神を祭祀したそうです。
神宮皇后といいこの髪長姫といい武内宿禰世代の
天皇妃は少彦名神を大切にしていますね。
沙沙貴神社では大毘古神と少彦名神と仁徳天皇が奉祭されています。
仁徳天皇と武内宿禰は繋がりがあるので
なんとなくこの白髭大神は武内宿禰ではないかという気がします。
ちなみに茨田の堤(日女島)で雁が卵を産んだのを
仁徳天皇が年老いた武内宿禰に確かめるとそんなはずはない
と歌で返されていますが何か深い意味がありそうです。
それから武内宿禰に関係する住吉大社には
夫婦楠の大木がありましたね。参考までに。
大きい枝ぶりも実に立派で、境内やその周りに落ちる葉や実の掃除は大変だろうと思われました。
大正年間に電線を引く為に枝を払った人が腹痛をおこしたので、それ以来枝払いはしないと書かれてありました。
ところで茨田の堤(日女島)のヒメ島はきっと現代の稗島(ひえじま)だと思います。
二島、三島など湿地帯に堤を築いて島みたいに中州・輪州ができてたのでしょう。
髪長姫と応神&仁徳天皇の三角関係ってどこか違和感ある不思議な関係ですね。
春に御堂筋の難波神社前のレストランで食事会があり、主祭神の仁徳天皇にご挨拶しました。
初めてお参りした神社なんですが、なんとなくなんで仁徳天皇が祀られてるんだろうと不思議な感じがしました。
これからはもう少し仁徳天皇にも留意したいと思います。
寝屋川市の八坂神社にも大きな楠のご神木があります。境内には、寝屋川市が保存樹に指定した4本の楠の木の他にも、15本の楠が育っているということで、「最も大きなものは、高さ約15m82cm、周囲約7m、樹齢は650年以上と推定されますが、1千年を超えるという説もあります。」と、神社のホームページに記載されていました。年何回か大規模に剪定されているようで、葉や枝が切り落とされてさっぱりしてしまって、遠くから仰ぎ見た時、こんもりしてなくてちょっと残念な感がありました。在勤中はよくお詣りしてお世話になって、楠も仰ぎ見ていたのですが、退職してからめったに行かなくなりました。ご祭神は素戔嗚尊ということです。
まだまだ気温が定まるまでくれぐれもご自愛ください。
ところでなぜ神社に楠が多いのかなぁと思ってました。
どうやらくすのきの語源は「薬の木」「奇し木」
樟脳がとれるお薬の木は、虫除けになり魔よけ効果あると考えられたのでしょう。
またくすのきは成長も早く、樹高も高く枝も張って社殿も護ってくれるし、遠くからの目印にもなるのでしょうね。
なんとなく楠の枝ぶりや幹肌をみてると精霊が宿ってそうな気がします。
で仁徳と応神でしょう?ありますよ。応神の時代なんかズレてそうですし。だってそれによってかなり歴史に差が出るはずですので。で私が思うには応神さんが元の仁徳さんで白持っていて姫ともこっちのが仲良かったと。今城系で治水にも職人なり技術なり持っていてそうした底辺の職人さんたちにもまた一般の方々の生活にも親身になっていた初期に仁徳さんで、その後、その方が消されたか騙されたかしていなくなりそこに人柱なんて発想をする仁徳さんになったと思ってます。
二人のエピソードが存在するようにも。
なので本来は猿田彦でその後武内宿禰さんが白になってるのかなあ?
あと土木治水には天文学も必要なのでその筋じゃないと無理でしょう。ブレーンはいないと。武内さんの弟あたり内の付く方なら可能性ありそうですのでそこが白かとも、歴史では水面下ですけどね。
客人といいますけど基準がどこかで反転してしまいます。東北が養蚕にしても先進だとしたら連れてくるでしょうし、渡来にもなりかねないです。
でそう思うと一番土着で妥当なのが女性の方。女系国家に先か後かに入ってきたようにも。葛城ですかね?
なので翻弄され続けられているのはいつの時代も何事も上手く出来る女性たち。
木が薬でありまた、あんなに凄い姿を残すのもとても意味ある土地なのでしょうし、地域の方に信仰もありそうでその方達も木からのパワー貰っているのでしょうね。1222
大阪は天王寺の東南に桑津天神社がありお気に入りで何度も参拝してます。
きっかけは、真田丸の大河ドラマの時にその歴史事実に沿ったウォーキングに参加するにあたり市内の地図眺めてました。
そのときに桑津天神社を発見、どこで知ったのか調べようがなかったのですが、この記事の吉田さんのコメントだったのがわかりました。
歴史はつながる響きあうというタイトルで記事エントリーしたことありますが、私事象でもそうですね。
この応仁天皇から仁徳、反正天皇の時代、地域では住吉、堺、平野、羽曳野、へぇ~そうだったんだと。
2014-11-03 に記しましたが、
>なぜに大阪に堺はモズなんだろう…
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/s/MOZU
今なお よくわかりませんが、この不思議は奥深そうですね。
今思うのは薬師信仰と船ですよね、門馬(この時でよかったっけ?)は持ってますよ!間違いなく。ここ出身の芸術家さんも日本護っていますし。
黒髪が白髪の変わってそうですよね。黒姫もかぶってくるかもね。東京では白鬚さんとたかむすびさんとかみむすびさんはセットに思いますし、風の神事もやってくれています。この儀式って九州どうなのかな?神風大事な地ですので。
でお知らせ頂いた稗の件ですけど稗田阿礼?とか日枝神社(行ったばっかだったのとまさる買ってきたのもあり)?って思いましたよ。あと佃の住吉あたりも稗って関係しなかったっけ?そうそう今比叡山の地図みたりそいて般若心経の額頂いてきたのを探そうと思っていたのを忘れていましたよ。
で唐崎でしょ?近江の比叡も日吉も比えも気になるんですよね。あと唐崎については唐じゃなく柄も鎌倉行って気付いたんですよね、大江(大枝)さんも関わる辺りでね。唐よりも柄のが昔の文書に出てくる文字ではないかな?と。なので唐沢山も柄沢山じゃないかな?とか思っています。
長柄とか桑の地探していた一連とも連動しそうですよね、桑津天神もコメントに出てきてるので。桑が集まる津?桑どこで海経由で関わっていたのか?門馬と桑津くっ付けて移動考えてみます。
三角関係も大好きでどの時代も出てくるんですよね。
そう仁徳さんが譲られたんですよ、応神さんに。だから人徳さん忖度して応神さんに忖度して人に愛される治水やっいたはずです。けどなんでか振る舞いがどこかで違ってきます、出来ない人のあがきのように。まずはストップして人柱とかやめて欲しかったなあ。本当の仁徳さんではないと思ってますけど今は。
宇治天皇あたりが出てきそうですね!治ついてるので治水できそうですし。
朝宇崎さんと阿木さんがなんだか表彰されたと聞いて思ったんですけど、昔からこの夫婦みていていいなあって。役割分担出来てるってね。
なので宇(男)と阿(女)のカップルは超いい感じに思うんですよね。武内宿禰さんの兄弟の内の付く方がいるなら宇智で内なんてどうかな?こんな神社なかったか?奈良で調べてみます。葛城襲津彦周辺でね。宇佐でもいい気もしますけど。ただ同じ女神でも八幡としては双子か義兄弟かで質と役割が違うはず。どちらも嫌いではないんですけど、判断力がある八幡が今必要に思います。なので宇くらい器大きいのも魅力なんですけど、一刀両断時の出来る方が今出てこないとと思うんですよ。そっちはヒなのかも?
稗島で妄想膨らみましたよ。
少なくても大阪も関係ある案件ですね、大分は。