日本社会の「新卒信仰」は果たして権威主義発の価値観に拠るのか改めて見てみる

2011-11-24 11:42:17 | Weblog

 昨日(2011年11月23日)、東京・新宿駅周辺で 就職活動に追われる大学生らがデモを行ったと、「asahi.com」記事が《「就活長い」「卒論書かせろ」 大学生ら100人がデモ》(2011年11月23日21時20分)と題して伝えている。

 名付けて、「就活ぶっこわせデモ」だそうだ。〈来春卒業予定の大学生の就職内定率(10月1日時点)は59.9%で、昨年に次いで低い。〉厳しい就職状況下、〈ツイッターやブログでの呼びかけに応じて集まった約100人が、「就活長いぞ」「卒論書かせろ」などと声を上げながら、約1時間練り歩いた。 〉と紹介している。

 小沼克之早稲田大5年・デモ企画者「勉強する時間を就活に奪われている。新卒ばかりが求められるのもおかしい」

 女子私立大生(10月から試験対策やマナーの講座に出席)「女性は笑顔でなければダメだと言われ、講座の最後には大声で『内定取るぞ』と言わされる。就活のおかしさを伝えたかった」

 デモ目撃主婦(53)「声を上げたくなる学生の気持ちはよく分かる」・・・・・

 デモ企画大学生が言っている就職活動の早期化で大学4年間で学ぶ時間を確保できにくくなっている弊害や企業の「新卒一括採用方式」が既卒者の就職活動に不利を強いている差別については2010年3月30日記載当ブログ記事――《新卒でなければ正社員になりにくい現状という権威主義 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に権威主義の面からの現象だとする立場から、私の才能の範囲内でほぼ書き尽くしていると思う。

 1年半近く経過しているから、再度ここに掲載してみる。 

 大学生の就職のあり方について議論している日本学術会議の「大学と職業との接続検討分科会」が新卒でなければ正社員になりにくい現状を問題視して、「卒業後、最低3年間は(企業の)門戸が開かれるべきだ」とする報告書案を纏め、文部科学省に提出すると、「asahi.com」記事――《卒業後3年は新卒扱いに 大学生の就職、学術会議提案》(2010年3月29日5時33分)が書いている。

 結婚したら、3年間は新婚扱いにしようと取り決めるようなものかもしれない。だが、そう取り決めたとしても、以前は新婚旅行から帰国と同時に別れる夫婦を譬えた成田離婚などといった言葉も流行ったし、それ程最悪ではなくても、新婚賞味期間の3年を経たずに離婚するカップルもいるだろうし、逆に結婚後10年を経過しても新婚状態を保つ夫婦が稀には存在するだろうから、新婚状態を維持できるか否かは当事者それぞれの意識の問題だが、就職の場合、新卒で就職の機会を逃した大学生がその後も新卒賞味期間を維持していたとしても、企業側が新卒年のみしか賞味期限を認めない就職制度を自らの意識とし、そのような意識を少なくとも戦後日本の就職制度に於ける歴史と伝統と文化としていたということなら、大学生側には太刀打ちできない双方の意識の断絶ということになる。

 記事は次のように解説している。

 〈日本の企業は、大企業を中心に、新卒者を採用する傾向が強い。中途採用はあるものの枠は狭く、希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書を持つために、留年するケースもある。 〉――

 だからこそ、このような現状を改めるべく検討された「卒業後3年は新卒扱い」という意識面での新たな制度の設定ということなのだろうが、企業が新卒者にほぼ限定して採用に値する価値を置くのは新卒・既卒に関係なく個々の人柄や能力に価値や権威を置くべきを、このことから較べたら形式に過ぎない新卒にある種の権威を与えて、上の存在と価値づけているからだろう。その逆として、新卒で就職できず、次の就職シーズンに再度のチャンスを求める既卒者に権威を置かず、新卒者の下の存在と価値づけていることから生じている採用傾向に他あるまい。

 日本の社会は家柄や血筋、職業、卒業した大学の有名・無名を上下の価値で権威づけているように、就職時の卒業時点に関してまで、新卒を既卒に対して上の価値で権威づける権威主義に支配されているということである。

 かなり前だが、一頃、家や大学の寮から通う女子大生は世間ずれしていない、アパートやマンションを住まいとしている女子大生は親に内緒で男をいつでも連れ込むことができる、外泊も自由で世間ずれしているからと、企業が住まいを採用時の条件としたといったことがあったと聞いたが、人間の価値はそういったことで決まるわけではないはずだし、試験の成績で決めれば済むことだが、採用し、使用する企業側が世間ずれしている女子大卒は扱いにくい、世間ずれしていない女子大卒は扱いやすい、素直に言うことを聞くに違いないといった意識があったからではないだろうか。

 そもそも権威主義とは上が自らを絶対として下を従わせ、下が上に無条件に従う行動様式を言う。上の指示・命令に対する下の同調・従属に狂いがあってはならない。狂いを生じせしめる条件を持った採用対象は疎外されることになる。それがかつての親から離れてアパートやマンションを借りていた女子大生であり、かなり前から現在まで引き続いている新卒時に就職できなかった既卒者というわけなのだろう。

 そしてこのような権威主義的採用条件は当然のことだが、大学の有名・無名を権威主義的に上下に権威づけて採用に差別を設ける制度と相呼応している。すべてが日本人の意識としてある権威主義的な価値観、権威づけから発生して、社会制度とまでなっている採用の仕組みをそれぞれに構成しているからだ。

 だが、このような権威主義に則った日本の社会的制度とまでなっている権威主義的意識からの採用制度を裏返すと、企業側は自らの人事管理能力に頼って部下を採用・使用するのではないことを何よりも証明している。

 権威主義の原理に頼って採用・使用することとなっているから、人柄や能力に価値を置くことよりも、有名大学卒か否か、新卒か既卒かといった自分たちがつくり出した形式に過ぎない権威に価値を置くことになる。

 住まいで女子大生の就職に差別をつけたのと同じく、権威主義の行動様式に照らして、新卒の方が既卒と比較して世間ずれしていない、純粋だ、言うことを聞かせやすいといった権威主義的な人事管理からの行動意識が理由となっている“新卒志向”といったところなのだろう。

 これは三昔か四昔前、男女とも女性は処女であることに絶対的価値、絶対的権威を付与した“処女信仰”にも相当する、日本の権威主義的思考が招いている大学生に対する一種の“新卒信仰”と言えないだろうか。

 新卒であるか否かが学生の人間価値の決定要件ではないのと同じように処女か否かがその女性の人間的価値を決定する資格要件ではないにも関わらず、かつての日本人は処女に人間的価値を置く権威主義に囚われていた。今以て囚われている日本人もいるに違いない。

 分科会は問題点を新卒でなければ正社員になりにくい現状のみに絞って議論したわけではなく、他にも問題点を取り上げている。

 就職活動の早期化で、大学4年間で学ぶ時間を確保できにくくなっている弊害や企業の「新卒一括採用方式」が特定の世代に景気変動の影響を与えやすい点等を取り上げ、問題視している。

 後者は“新卒信仰”が強く関係している問題点であろう。一旦景気変動の影響を受けて新卒の資格を失うと、例え景気が回復して有効求人倍率が上がっても、新卒でないことが本人の努力や能力に関係なしに後々の就職にも影響していく。

 何とも哀しい権威主義の価値づけであり、権威づけと言わざるを得ない。このことを避けるために、〈希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書を持つために、留年するケース〉が本人にとっては深刻な問題だろうが、滑稽にも発生することになる。

 分科会は具体的対策を次のように提案している。

 企業に対する新卒要件の緩和の要求。経済団体の倫理指針や法律で規制するのではなく、既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とする企業の公表。

 これは同じ枠で採用しない企業の社会的評価を落とす懲罰になると同時に同じ枠で採用する企業への社会的評価を高める報償とすることで同調を促そうとする提案であろう。

 政府に対しては卒業後も大学の就職支援を受けられるように法律を改正するなど速やかな対応の要求している。

 就職活動で学生が学業に打ち込みにくくなっている現状については大学4年間、あるいはさらに大学院での在学年の間、学生を社会から隔離するのではなく、インターンシップ等の制度を整備、そのような制度に則った機会を通して大学在学中から社会に交わることが重要だと提案している。

 さらに記事の最後で、〈大学が就職活動のスキルやノウハウを伝え、資格をとるよう促す動きについては大学教育全体で職業的な能力を育て、成績評価を社会でも意味を持つよう改善することなどを求めた。〉と解説しているが、大学生が在学中に得た職業的な能力の「成績評価を社会でも意味を持」たせることができたとしても、それ以前の問題として、大学間で大学の価値を上下差別する価値づけ、権威づける日本人の権威主義的意識を取り上げなければならないはずである。

 例えば大学在学中に国家公務員上級職試験に合格した。だが、学んだ大学が違っても、国家試験という同じ土俵に立って獲得した資格であるにも関わらず、卒業した大学の有名・無名によって採用後の地位・給与の待遇に上下の違いが生じる。

 このような差別を受けた場合、例え大学生が在学中に得た職業的な能力の「成績評価を社会でも意味を持」たせることができたとしても、その評価は出身大学による待遇差別によって相殺されることになる。

 大学の有名・無名に従って与えた価値・権威をそのまま大学生個人の能力として価値づけ、権威づける。あるいはそのような権威主義的な価値観を在学中に得た資格にまで広げる。何とも如何ともし難い日本人の権威主義の行動様式ではないだろうか。

 以下参考引用――
 
 《卒業後3年は新卒扱いに 大学生の就職、学術会議提案》asahi.com/2010年3月29日5時33分)

 大学生の就職のあり方について議論している日本学術会議の分科会は、新卒でなければ正社員になりにくい現状に「卒業後、最低3年間は(企業の)門戸が開かれるべきだ」とする報告書案をまとめた。最終報告書は近く、文部科学省に提出される。同会議は、今の就職活動が、学生の教育研究に影響しているとして、新しい採用方法の提案などで大学教育の質についての検討にもつなげたい考えだ。

 日本学術会議は、国内の人文社会・自然科学者の代表機関で、文科省の依頼を受けて話し合っている。報告書をもとに同省は議論に入る。

 今回、就職にかんする報告書案をつくったのは「大学と職業との接続検討分科会」で、就職活動早期化で、大学4年間で学ぶ時間を確保できにくくなっている弊害などが出ていることから、対策を考えてきた。

 日本の企業は、大企業を中心に、新卒者を採用する傾向が強い。中途採用はあるものの枠は狭く、希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書を持つために、留年するケースもある。

 報告書案では、「新卒一括採用方式」について、特定の世代に景気変動の影響が出やすい点を問題視。卒業後すぐ採用されなければ正社員になるのが難しいことから、卒業後最低3年は在学生と同様に就職あっせんの対象にすべきだとした。

 企業側にも新卒要件の緩和を求め、経済団体の倫理指針や法律で規制するより、既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とする企業を公表することを提案。政府にも、卒業後も大学の就職支援を受けられるように法律を改正するなど速やかな対応を求めている。

 また、就職活動で学生が学業に打ち込みにくくなっている現状についても、規制のみで対応することには限界がある、と記述。大学が学生をできるだけ長く社会から隔離するのではなく、インターンシップなどの機会を早くから整備することが重要とした。

 大学が就職活動のスキルやノウハウを伝え、資格をとるよう促す動きについては大学教育全体で職業的な能力を育て、成績評価を社会でも意味を持つよう改善することなどを求めた。

 大学生の就職のあり方について議論している日本学術会議の分科会が鳩山内閣下の2010年3月下旬に新卒でなければ正社員になりにくい現状に「卒業後、最低3年間は(企業の)門戸が開かれるべきだ」とする報告書案を纏めて、4月に入ってからなのか、最終報告書を文部科学省に提出した。

 政府は4ヵ月後の管内閣下の8月30日、若者の雇用対策を含んだ追加経済対策の基本方針を1日前倒しして決定。

 8月30日から2ヶ月以上経過した2010年11月15日に厚労省は菅政府の追加経済対策の基本方針を受けて、改正「青少年雇用機会確保指針」を公布。

 「厚労省のHP」には次の文言が書き記してある。

 〈雇用対策法第7条および第9条に基づき、厚生労働大臣が定めた「青少年の雇用機会の確保等に関して事業主が適切に対処するための指針」に、新卒採用に当たって、少なくとも卒業後3年間は応募できるようにすることなどが追加されました。〉・・・・

 いわば卒業後3年間は新卒扱いをせよのお達しである。

 雇用対策法の第1章総則第7条と第9条―― 

 〈第7条 事業主は、青少年が将来の産業及び社会を担う者であることにかんがみ、その有する能力を正当に評価するための募集及び採用の方法の改善その他の雇用管理の改善並びに実践的な職業能力の開発及び向上を図るために必要な措置を講ずることにより、その雇用機会の確保等が図られるように努めなければならない。〉

 〈第9条 厚生労働大臣は、前2条に定める事項に関し、事業主が適切に対処するために必要な指針を定め、これを公表するものとする。〉 

 必要な指針として公表したのが改正「青少年雇用機会確保指針」だというわけである。

 だが、上記第7条が追加されたのは平成19年(2007年)である。この第7条を以てして3年経過しても新卒者を既卒者の上に置く権威主義、新卒信仰を改めることができなかった。

 そして2010年11月15日改正「青少年雇用機会確保指針」公布から約1年経過しても、今年3月に卒業した大学生の就職率が被災地も含めて全体で91.0%の過去最低で、新卒でも狭き門となっているところへ既卒者にしたら、新卒信仰が原因してなお一層狭くなっているからだろう、「新卒ばかりが求められるのもおかしい」とデモで訴えざるを得なかった。

 デモ企画者が早稲田大5年生の肩書となっているところを見ると、新卒肩書維持のために留年した口なのかもしれない。

 では、厚労省が改正「青少年雇用機会確保指針」公布で「少なくとも卒業後3年間は応募できるように」新卒扱いせよとお達しした具体的な“成果”はどの程度か、「MSN産経」記事――《企業の既卒者採用 受け付け6割、実績1割》(2011.8.25 07:44)が書いている。

 人材総合サービスのディスコ(東京都文京区)の調査。7月25日から8月1日にかけて全国の主要企業1万6868社に行い、1104社から回答。

 「既卒者を今年度から受け付ける企業」――14・7%。
 「以前から受け付けていた企業」   ――42.5%
                   合計57・2%

 『卒業後何年目までの既卒者を受け付けているか』

 「規定は設けていない」――51・1%
 
 『規定している場合の年数』

 「3年以内」――34・7%(最も多かった。)

 内定を含めて既卒者への内定出しの実績――13・7%

 1千人以上の企業――22・7%
 300人未満の企業――10・2%となった。

 記事は面接はするものの、内定実績は僅かという実態を伝えている。

 厚労省のお達しをクリアするための面接が実体といった側面もあるに違いない。

 調査した人材総合サービス・ディスコの恩田敏夫フェローが、《「3年以内既卒者の新卒扱い」実態変わらず、むしろ波乱要因の懸念も》と題して解説している。

 多くの採用担当者「就職できなかったのはコミュニケーション能力や積極性を欠くなど、それなりの理由があったからで、よほどの努力がなければ、そうしたものは1~2年で身に付くとは考えにくい」

 別の採用担当者「既卒はあまり優秀ではない。同レベルなら既卒ではなく新卒」

 要するに一度採用の篩(ふるい)からこぼれて既卒となった人材に過ぎないと言っている。

 そして恩田氏の解説。〈内定を得られるのは、留学経験者や国家公務員受験者など企業から評価される既卒者に限られ、決してすべての既卒者が新卒採用の対象になっているわけではない。〉・・・・

 そして最後のダメ押し。

 〈3年以内既卒者の新卒扱いという指針改定以降、今年ダメでも来年頑張ろうと就活の力を抜く学生が明らかに増えているという。〉・・・・

 こう見てくると、既卒忌避・新卒信仰は権威主義からでも何でもなく、実質的評価に基づいた公平・正当な選択だということになる。

 〈内定を得られるのは、留学経験者や国家公務員受験者など〉の既卒者に限られると解説しているが、留学経験や国家公務員受験に一種の権威を置いていないだろうか。

 留学に関してもすべての国の留学を対等に見ているわけではなく、権威主義の意識が働いてアメリカを一番としてイギリス、フランス、ドイツへの留学を上に起き、アジアやアラブ、東欧の大学への留学を低くみる価値観に囚われている傾向がある。

 アメリカやイギリス、フランス、ドイツへの留学だと、留学自体の価値はもとより、留学が可能なのは多くは所得余裕層であり、そのことへの価値観も働いた権威主義的な評価ではないと決して否定できないはずだ。

 上記解説では、「国家公務員受験者」と書いてあって、「国家公務員試験合格者」とは書いてないが、合格という結果を得ていなければ意味はないのだから、試験合格者だと思うが、その場合、国家公務員を上と見ている官尊民卑の権威主義を引き継いだ価値観と見ることもできる。

 また、企業の評価が「留学経験者や国家公務員受験者など」の既卒者に限られるとする限定自体が既に権威主義のワナにはまっている。

 このことは自分たちが採用試験を行なって採用した新卒者のすべてが優秀だとは限らないことが証明する。2008年(平成20年)の中・高・大卒の厚生労働省職業安定局調査の「新規学卒就職者の在職期間別離職率」によると――

 四捨五入の関係で1年目、2年目、3年目の離職率の合計と一致しないことがあるとのこと。

 離職率  1年目   2年目   3年目   合計

  中卒   44.1%   12.1%   8.5%   64.7%
  高卒   19.5%   10.0%    8.1%   37.6%
  大卒   12.2%   9.5%    8.3%   30%

 新卒社員にとって会社の風土や仕事が合わなかいからと辞めていく場合もあるし、同僚の新卒と比較して仕事に能力を発揮できないと辞めていく場合もあるだろう。

 だが、どちらであっても、会社の風土や仕事内容を熟知している人間が採用のすべてに関わって、会社の風土に合うだろう、会社の仕事に能力を発揮してくれるだろう、期待できる人材だと採用という最終判断を新卒受験者に対して下したはずである。

 そこには会社の社員との人間関係にしても予定調和とする計算もあったはずだ。

 2008年に限って言うと、30%の新卒者にお眼鏡違いが生じた。

 新卒者に対する目は絶対ではないということである。当然、既卒者に対する目も絶対とは言えないことになる。 

 だが、既卒者に対しては「コミュニケーション能力や積極性を欠く」、「既卒はあまり優秀ではない」と自らの目を絶対とすることで、このことが新卒者に対する目をなお絶対とすることになる権威主義的な“新卒信仰”を生んでいたはずだ。「同レベルなら既卒ではなく新卒」を採用すると。

 以上の言葉には試験や短時間の面接では形式知を示すことはできても、そこでは滅多に現れることはない、大学では会得できない、就職浪人中に一般社会でしか会得できない経験知を会得した可能性に対する探究心すら窺うことができない。

 自分の会社という狭い社会にしか生きてこなかったからではないか。

 自らの目が絶対ではないにも関わらず、両者それぞれに対して以上のような評価を可能としていたということは評価を固定観念としていたことを意味する。

 固定観念を以てして、新卒を上に置き、既卒を下に置く権威主義で差別を働いてきた。

 無意識のうちにだろうが、自らの目を絶対とすること自体が既に権威主義の意識に侵されている。そこに新卒を上に置き、既卒を下に置く価値観に基づいた差別を生じせしめていた。

 「コミュニケーション能力や積極性を欠く」等が既卒者に認められる一般的傾向であったしても、また実際に既卒者の中には「今年ダメでも来年頑張ろうと就活の力を抜く」者も無視できない人数で存在するかもしれないが、ワンチュク・ブータン国王の人それぞれの内面に生息して経験を餌として育つ人格という名の竜の説話からすると、既卒者を社会経験を積んだ者として、その経験が会社が即座に必要とする知識や技術にそぐわなくても未知の何かを生む人格上の可能性としての価値は決して無視はできないはずで、少なくとも固定観念や先入観なしに新卒者と既卒者を同じように並べて比較すべきだろう。

 そうすることによって日本人の多くが侵されている権威主義を少しづつ剥奪していくことができるはずだ。

 どう考えても、権威主義の価値観から端を発した新卒と既卒の差別的な扱いに見える。

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