12日の衆院予算委員会での自民党石原伸晃と菅首相、その他菅内閣の閣僚との質疑を衆議院インターネット審議中継動画で覗いてみた。そこで菅首相が言い放ったという「大風呂敷」なる言葉が石原伸晃の批判の俎上に上げられた。
この「大風呂敷」は10月7日の衆議院本会議での代表質問で社民党の重野安正議員が菅首相の所信表明演説を把えて、「大風呂敷を広げたと言われないだけの実績を残せるのか」と疑問を投げかけたことに対して、菅首相が「率直に言って大風呂敷を広げたんですよ」と答弁、それを新聞の報道で知ったが、その答弁をさらに石原伸晃が把えて、批判を展開したということである。
私自身もこの「大風呂敷」発言を把える一人となるのだが、単に言葉を把えるわけではない。言葉は人柄に関係してくる。人柄とはその人間の性質のみではなく、人格をも表す概念であろう。人格は信頼や尊敬、あるいはその逆の不信や軽蔑といった対人関係を生み出す動機性にも影響し、当然、指導力にも影響の網を広げる。
このことを逆説すると、指導力の有無から人格や人柄の良し悪しに遡ることができることになる。指導力と人柄・人格とは相互関係性を築いているということであろう。
先ず重野安正議員の代表質問から、「大風呂敷」に関係する発言とそれに対する菅首相の答弁箇所を同じ衆議院インターネット審議中継動画からかいつまんで拾ってみる。
重野安正「菅首相は所信表明を先送り一掃宣言と位置づけ、有言実行で取り組む決意を表明した。意気込みは買うが、問題は実現への道筋であり、その実行力である。必ずやりますと言っても、実際の行動が伴わなければ、信を失うだけである。この間の首相発言を見ても、有言の内容も抽象的な言葉ばかりで、イメージが湧いてこない。説得力がないと言われても仕方がない。大風呂敷を広げたと言われないだけの実績を残せるかどうか、改めて総理の決意を聞かせてもらいたい――」
菅首相「重野議員からのご質問にお答えいたします。先ず有言実行ということについて質問をいただいた。(老眼鏡をかけ、原稿を読み出す)所信表明ではこれまでの20年の長きに亘り先送りされてきた五つの重要政策課題に今こそ着手し、次の世代に残さないで解決していかなければならないとの覚悟を申し上げたところでございます。
五つの政策課題、即ち経済成長、財政健全化、社会保障改革の一体的な実現、そしてその前提としての地域主権改革の推進、さらには主体的な外交の展開、についてはそれぞれに具体的な考え方を所信表明で説明し、各党各会派の議員のみなさんにご協力をお願いさせていただいた。
(原稿から目を離し、一段と強めた声で)まあ、大風呂敷を広げたと言われないようにとのご指摘であるが、ま、率直に申し上げて、大風呂敷を広げたんですよ。
つまりどういうことかと言えば、本当にそれを進めるためには、単独で民主党だけでできるとは思っていません。まして私一人でできると思っておりません。ですから、私はその五つの問題について熟議で議論をした中でこれを超えていこうということを、全議員、全国民に訴えたいということで大風呂敷を広げさせていただいたところであります――」
菅首相は五つの政策課題の内、「主体的な外交の展開」で既にウソをついている。ウソと言って悪ければ、有言不実行となっている。尖閣沖領海での中国漁船衝突事件に端を発した対中外交は誰が見ても「主体的な外交の展開」とは言えないからだ。対米と同等、あるいはそれ以上に重要な対中外交で「主体的な外交の展開」が有言不実行となると、菅内閣に何を期待したらいいと言うのだろうか。
これも菅首相が指導力を欠いていることから招いた有言不実行の「主体的な外交の展開」であろう。
また、重要政策を「単独で民主党だけでできるとは思っていません。まして私一人でできると思っておりません」と言っていることについても、参議院の議席、“数”が決定づけている条件的姿勢に過ぎない。
条件によって変わる姿勢だと言うことである。参議院でも民主党が例え連立を組んだ勢力であっても、過半数を獲得できていたら、菅首相の口からは出てこない「単独で民主党だけでできるとは思っていません。まして私一人でできると思っておりません」であろう。
所詮、自己利害・自己都合からの発言に過ぎない。
菅首相は民主党代表選で、「私はカネと数ということを、あまりにも重視する政治こそが古い政治だ」と発言している。
しかし“数”は政策の優位性を訴えて獲得した政治遂行のための重要な力の源泉であり、それを失うと、与党としての主体性まで失うことになる。いわば菅首相が言っている「熟議」とか「熟議の民主主義」は参議院に於ける“数の無力”が言わせている便宜的な自己利害・自己都合からの発想に過ぎない。
参議院で“数”を失ったのは菅首相自身の消費税に対する対応の拙劣な発言が招いた失態であって、自身の失態、その責任を隠して、重要政策だから、民主党単独ではできない、私一人ではできないからともっともらしげに「熟議」を押し付けがましく要求するところに菅首相の人柄、人格が現れている。
大体が「熟議」を求めるために「大風呂敷を広げた」五つの重要政策課題だとすること自体が論理矛盾そのものでしかない。「熟議」と「大風呂敷」は決して相容れない要素であるはずである。
政権党である以上、五つの重要政策課題を精査・検討してよりよい政策に完成させてから、野党に提示、野党の政策と「熟議」に持っていくという謙虚なプロセスを必要としているはずだが、そういったプロセスを取らずに、「率直に申し上げて、大風呂敷を広げたんですよ」は体裁のいい言葉を前後に挟んでいるが、開き直り以外の何ものでもない。菅首相の人間の程度が知れる。
では、石原伸晃議員の「大風呂敷」言及をみてみる。
石原伸晃「総理、参議院の本会議で、民主党は大風呂敷を広げたんだと、私は胸を張って開き直ったのかなと、そんな気がした。『大風呂敷を広げる』という意味は、ホラを拭く、できもしないことを言う意味だと広辞苑に書いてある。・・・・大風呂敷を広げたと言うなら、みなさん方のことを大風呂敷内閣とこれから言わせていただきたい。
小沢元幹事長の証人喚問要求の質問に移る。
菅首相「先ずは大風呂敷という言葉を言われた。私は初当選のときある新聞が『永田町の乗っ取り作戦』という記事を私を中心に書いてくれた。当時私は5人の政党に属していて、永田町を乗っ取るなんて言うと、まさに大風呂敷を広げたことになる。
しかし、その29年後、30年後にその大風呂敷を広げたことが実現できたわけであります。つまりは大風呂敷というのは、私はそう簡単にはできないけれども、やりたい、やらなければならないと思うことを広げるのが、私は大風呂敷だと思いますが、石原さんの考えは若干違うようでありまして、大変残念であります。そのことをあんまり申し上げるつもりはありませんが、先程申し上げましたが・・・・」
あとは例の如く、「20年間の日本の閉塞状態を打ち破るには私一人、あるいは民主党一つの政党ではできない」からと「熟議」を求める展開へと移っていく。
多分菅直人は初当選したとき、「永田町を乗っ取る」と宣言したに違いない。その発言を把えて、新聞は『永田町の乗っ取り作戦』と題した記事を書いた。確かに「大風呂敷を広げた」と受け止める向きもあったに違いない。この若造が何を抜かすかと。
そして菅直人は総理大臣になったことを以って「その29年後、30年後にその大風呂敷を広げたことが実現できたわけであります」としている。
総理大臣になったことを以って永田町を乗っ取ったことにならないにも関わらずである。総理大臣となり、官僚主導から政治主導を真に確立したときこそ、初めて永田町を乗っ取った言える。
あるいは功績ある政治的実績を残したとしてもそれが官僚主導で行われた政治的実績で、自身は官僚のロボットに過ぎなかったということなら、長期政権を築いたとしても、やはり永田町を乗っ取ったということにはならない。
いわば実際には永田町を乗っ取ったわけでもないのに初当選のとき「永田町を乗っ取る」と大風呂敷を広げたことが総理大臣になったことを以って実現させたとするのは牽強付会、こじつけに過ぎないということである。
しかも、「石原さんの考えは若干違うようでありまして、大変残念あります。そのことをあんまり申し上げるつもりはありませんが」と、「大風呂敷」を石原の勘違いだとして、それを追及しない恩着せがましささえ見せている。
石原伸晃はこの牽強付会、薄汚いこじつけを見破って、逆に追及すべきだったが、菅首相の『大臣』なる著書の中の言葉に移っていく。
石原伸晃「総理の著書の『大臣』の中の抜粋です。〈与党の大臣に金銭的な疑惑が持ち上がると、そんなときにコメントを求められると、総理大臣は恐らくこう言う。『国会のことは国会に聞いてくれ』。しかし自分の党の議員が疑惑を持たれているのであれば、党首として何かの措置は取るべきだ。〉
そう本には書いてある。(小沢証人喚問要求に関して)総理が答弁されたこととは大分違う。この著書の菅直人さんと総理大臣の菅直人さんは二人いるように思います。自分の本の中で言っていることが正しいのか、先ず国会が決めるの、本人の意向を尊重して・・・。
今の答弁が正しいと言うのであれば、840円払って総理の著書を買った方々におカネを返却するか、国会のことは国会で、本人の意向を尊重して、と書いた改訂版を出したらよろしいのではないのか――」
菅首相「私の著書をもしお買い上げいただいたなら、有り難いことで、その中で色々私が申し上げたことを引用された。私もそういうことを著書の中で述べていることを、そのものを別に否定しないし、その考え方の根本を変えているわけではない。まあ、総理大臣等立場に立ってみて、一つ一つの言葉や一つ一つの行動が従来よりも非常に大きな影響、ときには自分が考えることとは必ずしも違った影響もありうる。
例えば私が消費税のことを議論しようと言ったつもりが、引き上げると言ったようにも表現されてしまうとか、そういうこともありますので、そういうことも色々ありますので、そういった意味では、先程申し上げたように、私としてはその問題についての表現が若干慎重な表現にとどめているかもしれませんが、基本的な考え方で特に変わったというつもりはありません――」
先ず最初に消費税に関する発言も牽強付会、薄汚いこじつけの類でしかない。先に触れたように菅首相の消費税発言は自身の失態――党内で具体的検討を行い、具体的内容に仕上げてから、その内容を国民に知らせすのではなく、そういった手続きを踏まないままに社会保障政策等の財政上の必要性の点からのみ取り上げ、しかも政権与党としての主導性を捨てて、菅内閣としてなぜ10%なのかの説明もないままに増税率を自民党案の10%を参考にするとした無責任が招いた失態であるにも関わらず、それを「引き上げるといったようにも表現されてしまう」と他者に責任を薄汚くも転嫁している。
全体として言っていることは一議員の立場で言っていることと総理大臣の立場で言うこととは他が受け止めることによる影響が違うから、基本的な考え方は違わないが、「表現が若干慎重な表現」になるということだが、何を言っているのか意味不明である。
それぞれの立場に応じて立場上の自己利害がそれぞれに異なるから、その自己利害の違いに応じて言っていることが違ってくるだけの話で、第三者の受け止め方の解釈の違いではない。菅首相は自身の消費税発言を例に出して、それをさも第三者の受け止め方の解釈の違いであるかのように誤魔化したに過ぎない。
また著書の中の言葉と現在言っていることの違いは証人喚問が自身にとっても内閣にとっても民主党にとっても都合が悪い自己利害上の損得勘定から逃げていることによって生じている本の中で言っていることと実際の行動との食い違いでしかない。
だが、その誤魔化しに石原は気づかなかったばかりか、逆にささやかだが、エールを送っている。
石原「『考えていることと違ったことを求められる。色々あるから、今回のこの問題の表現というのは慎重になった』と。これはまさに総理大臣としての職責ということを考えてのご発言ではなかったかと解釈させていただきます」
人間がお人よしにできているのだろうか、菅首相の牽強付会、こじつけに何ら気づかずにこの問題についての質問を切り上げ、中国当局によるフジタ社員の拘束問題に移っていく。
例え石原伸晃がお人よしであることによって菅直人のウソが露見を免れたとしても、このような牽強付会、こじつけは深く人格に関わる精神作用が働いた性格行為であって、この手の人格が指導力、リーダーシップを獲得することは決してあり得ない。相互に関連し合う性格行為だからだ。