舛添は足利事件を何ら学習できずに検察捜査に冤罪も不起訴も存在しないと言っている

2010-01-25 09:28:08 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。


 昨1月24日日曜日、フジテレビの「新報道2001」で自民党の舛添要一前厚労相と民主党の細野豪志副幹事長が小沢民主党幹事長が資金管理団体土地購入に関わって政治資金規正法違反の疑いが掛けられている問題について是非の議論を戦わしていた。

 当たり前のことだが、舛添は自民党議員という立場上、“非”の態度に終始、細野は民主党という立場上、“是”の姿勢を取り続けたいたようだ。分かり切っていた上に、舛添の小沢問題を通した民主党批判はその他の自民党幹部の民主党批判の焼き直し、あるいは繰返しに過ぎないことも分かり切っていたことだったから、舛添をエセ政治家だと頭から信じ切っていることもあって、ビデオにも撮らずにパソコンを叩きながら適当に聞き流していた。

 【エセ】=似非――「似てはいるが本物ではない、見せ掛けだけの、の意を表す」(『大辞林』三省堂)

 次の発言だけを耳がしっかりと把えた。

 「日本は法治国家であって、独裁国家ではない。検察も法と証拠に基づいて捜査をする。検察が参考人として事情聴取するといったことは大変なことなんですよ」

 これも谷垣総裁か大島幹事長か、町村かが同じように言っていたセリフで、その焼き直し、あるいは九官鳥かオームが同じ言葉を立て続けに言うような同じ繰返しに過ぎないから、自然と耳に入ったのだろう。

 「法と証拠に基づいて」がすべて絶対正しいと言うことになったなら、冤罪も不起訴も存在しなくなる。

 だが、冤罪は存在するし、逮捕、取調べた結果、立証できなくて不起訴ということも存在する。

 足利事件も検察は「法と証拠に基づいて捜査」をしたはずだ。それが冤罪だったということは「法と証拠に基づいて」冤罪をデッチ上げたと言うこともできる。見事な逆説ではないか。

 いわば検察がいくら「法と証拠に基づいて」自らの職務を遂行していたとしても、検察という存在を絶対とすることはできないと言うことである。

 当然、その証拠も絶対とすることはできない。絶対とすることができない間違った証拠を基に捜査したから、無実の罪を着せることになったはずだ。〈当時のDNA型鑑定の精度について、弁護側が足利市だけでも約50人が一致したと質問すると、「それくらいの知識はあった」〉(時事ドットコム)と述べているにも関わらず、検事は疑ってかかることをせず、鑑定結果から絶対犯人だを固定観念化させ、その固定観念に基づいて犯人だとする自白を引き出すべく、そこに狙いをつけた自白のみを求め、狙いに反する自白は排除・否定して、それぞれを積み上げていって起訴に持ち込んだのだろう。

 菅谷利和氏の供述・自白が二転三転することからも、それをウソと看做す固定観念を働かすのみで、自分たちの「証拠」を疑ってかかることをしなかった。

 検察・警察がつくり上げた固定観念は菅谷利和氏が法廷で否認に転じても揺らぐことなく、判決をも左右した。

 “法と証拠に基づいた捜査”が絶対ではないからと言って、小沢幹事長に対する現在の検察捜査や事情聴取が間違っているとすることは勿論できない。小沢氏自身が不正なカネの流れに直接関与した証拠が上がる可能性も否定できない。

 しかし現在は検察の捜査段階であって、すべてが決定事項であるわけではない。小沢幹事長が例え逮捕・起訴され、有罪が確定しても、鈴木宗男が狙っているように最高裁まで争う可能性も否定できないのだから、最終結末まで待つしかない。

 町村も同じ24日の朝日テレビ「サンデープロジェクト」で、「検察が何の確信もなく動くはずはない」と言っていたが、やはり“検察の確信”を絶対と看做す固定観念を前提とした予断ですべてを判断しようとしている。

 現在足利事件の再審が行われていて、法廷で残されていた検事の取り調べテープを再生、取調べのどこに過ちがあって冤罪が引き起こされたか検証している最中であるにも関わらず、舛添もその他自民党の面々も足利事件から何ら学習できていない。客観的な合理的判断能力を著しく欠くからだろう。

 足利事件で再審で、菅家利和氏が次のようにかつての取調検事に尋ねている。

 「森川さん。17年半もの間、無実の罪で捕まっていました。あなたはこのことをどう思いますか」

 森川元検事「私は当時、主任検事として証拠を検討し、その結果、菅家氏が(松田)真実ちゃんの殺害事件(足利事件)の間違いないと判断しました。新たなDNA型鑑定で犯人でないとうかがって、非常に深刻に思っているところです」(msn産経

 菅家利和氏「自分に無実の罪をきせたことについて、謝ってください」

 森川元検事「先ほど申したとおり、私も厳粛に、深刻に受け止めています」(同(msn産経

 1991年12月2日、45歳で逮捕なのか、それから17年半、62歳で釈放。無実の罪で17年半も刑務所に囚われ、人間としての自由を奪われてきた。無実であるだけに遣り切れなさや居たたまれなさ、苛立ちに満ちた苦痛と絶望の17年半の生活だったに違いない。

 言ってみれば、一個の人間に対する一種の精神的殺人に相当する身体拘束と自由の抑圧ではなかったかと言える。精神的殺人に相当する社会からの残酷な隔離であったろう。

 検察と警察が自らの「法と証拠に基づいて捜査」した挙句に犯すことになった精神的殺人である。

 人一人を17年間半もの間、精神的殺人の状態に置き、精神的な後遺症を一生引きずらせることになるだろう心的外傷を与えながら、菅家利和氏の「自分に無実の罪をきせたことについて、謝ってください」の問いかけに謝罪の一言も述べずに、「厳粛に、深刻に受け止めています」の一言で済ませる。

 一言で済ませることができる精神の持主だからこそ、「法と証拠に基づい」た固定観念で犯人だとデッチ上げることができたに違いない。

 小沢幹事長が「本来ならばこの種の問題は形式犯だから修正で済む」と言っていることに対して、町村はサンデープロジェクトで、「形式犯であっても政治資金法違反は一番重い。5年以下の禁錮、100万円以下の罰金だ」とか言っていたが、罰則事実を述べただけのことで、罰則の確定を行うのは町村自身ではなく、また他の自民党の面々でもなく、またマスコミでもないはずだが、小沢幹事長の政治資金法違反を前提とした罰則確定の上に立ち、罰則事実を述べている。

 これは足利事件を取り調べた警察・検事の固定観念を前提とした犯人確定に重なる。冤罪や不起訴といった可能性を一切排除して、先ず犯罪や犯人を確定し、そこにすべての事実を当てはめようとしている。

 疑わしきは罰せずの鉄則を忘れ、疑わしい時点で銘々勝手に裁いて罰則まで下そうとしている。

 舛添をエセ政治家だしているのは、当ブログで色々と批判しているが、特に、「自民党再生は駄目だ。悪いものを再生してもしょうがない。叩き割って新しいものをつくらないといけない」とか、「自民党の歴史的な役割は終わっており、名前を変えるくらいのことをして作り替えることが必要だ」等々、自身が所属する自民党をクソ味噌に悪く言うことで自身を逆の状況に置いて自分の評価を上げようと謀っている狡猾・巧妙な点をエセ政治家だとする一例として挙げることができる。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする