親・大人の身勝手が子どもの命を正月早々から危険な目に遭わせる

2010-01-02 09:15:25 | Weblog

 正月3ガ日は休業の約束でしたが、鳩山内閣のマニフェスト以上に簡単に破ることにし、守れない約束としてしまいました。悪しからず。

 正月元日は大晦日からだらしなく酒を飲み、だらしなくテレビを見、だらしなく惰眠を貪って、2日、遅い朝を迎えて、川崎市川崎区殿町1丁目のマンション6階に住む男性会社員(37)の長女(3)が親の留守中6階の窓から隣接する公園の植え込みに転落、頭などを強く打ち重傷を負った状態で親に発見されたという1日朝の出来事として伝えている2日付の「asahi.com」記事を読んで、その遣り切れなさに怠惰に正月を過ごす予定を急遽変更して記事を書くことにした。

 会社員と妻(30)は午前6時過ぎから初日の出を見に外出する際、長女が熟睡していたために部屋にそのまま残して、長男(2)だけを連れて出掛けたという。

 子どもが目覚めた場合、家に誰もいないことの不安がどれ程のものか認識する想像力を欠いていたから、一人残すことができたのだろう。部屋中を探して親の姿を見つけることができず不安に襲われた3歳の子どもが、あるいは激しく泣きながらだったかもしれない、通常の冷静な落着きを失って普段親子で遊びにいく隣接する公園にでもいないかと6階の窓から下を覗き込んで探すが、見つからない焦りからすっかり混乱して、多分一層激しく泣いて自分の身体のバランスまで考える余裕もなくなお見つけようと窓から身を乗り出し過ぎ、転落してしまったといったところではないだろうか。

 日本の子どもは親がああしなさい、こうしなさいと手をかけ管理する支配と服従の親子関係、もしくは大人と子どもの関係にあるから、子どもから見たら逆に親や大人の支配に――ああしなさい、こうしなさいに全面的に依存する、いわば親がいなければ自分では何もできないという非自律の行動性を手に入れることになる。

 親がそのように躾けることで子どもが自らなすべき課題を見つけて、自分で考えて自分で解決し、それを自らの行動に結びつけていくという、いわゆる総合学習で掲げた「考える力」の欠如は生まれたときから始まる。

 子どもに散々に親、もしくは大人への依存心を植えつけておいて、自分たちの都合で勝手にその依存心の突っかい棒を外して子どもをほったらかしにして命を危険に曝してしまう。もしくは命を失わせてしまう。子どもの命を心底から考えることができない自分勝手な大人たちに子どもの命が翻弄される。

 幼い子どもを駐車場の日照りで45度以上にもなる車内に閉じ込めて夫婦揃って何時間もパチンコに夢中になって子供のことを忘れて熱中症で死なせてしまう。幼い兄弟を家に置いて自分たち夫婦はスナックに飲みに行ったりカラオケに行ったりして、その間に子どもがストーブを倒したりライターで火遊びして家を火事にして焼死させてしまう。

 まさかこの転落が、親が子どもを虐待して間違って重症を負わせてしまった。病院に担ぎ込めば、病院から警察に連絡されて、会社や社会に於ける自分の立場が悪くなる。犯行を隠すために6階の窓から隣接する公園にまだ生きている子どもを投げ捨て、初日の出を見に行った間にさも転落死したように見せかけたが、まだ死なずにいたといったことはあるまいと思う。

 だが、そういったことをする親が決して存在しないと断言できる社会になってはいない。

 「Google」で調べたところ、意識不明と伝える報道もあれば、意識は残っていると伝える報道もある。例え死なずに済んだとしても、死を背中合わせに意識させる大きな心の傷を子どもに残すことになるように思えてならない。子どもに対する親や大人の死なせてしまったとしてもこれ程の残酷なな仕打ちはないだろうし、助かったとしてもやはりこれ程の残酷な無残な仕打ちはないに違いない。


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