独裁性が対人的非自律性を生み、非自律性が対人上の独裁性を許す

2009-12-07 11:13:43 | Weblog

 独裁性が対人的非自律性を生み、非自律性が対人上の独裁性を許す」という関係は極々当たり前のことだから、誰もが言っているごくごく当たり前の話の展開となるが、勘弁願いたい。
 
 阪神大震災などで災害ボランティアとして入った男性がその場で組織されたグループのリーダーを任されて活動し、あれこれと指図するうちに人を動かすことに快感を覚えたのか、相手が分かっているちょっとしたことも前以て指図しないと気が済まなくなって指図するようになることがあるそうだ。

 分かっていることだからとメンバーが自分の判断で動くと勝手に動いたといって不機嫌になる。あるいは指示したことが相手の判断で変えられると、例え効率の点でも結果の点でも見劣りなく仕事をこなしたとしても、自分が指示した通りの作業手順ではないとクレームをつけたりする。

 そういったことが問題となったボランティアがいたという話を聞いたことがある。

 これは既にリーダーが自己の判断を絶対化している状況を示している。自己の判断の絶対化は自己の絶対化を同時併行させていることは断るまでもない。

 自己の絶対化状態は指示が既に絶対命令となっている状況を示してもいる。他人によるそれぞれの判断を許さない指示という逆説は存在しないのだから、その指示は指示としての性格を失って絶対命令への変身を余儀なくされていると言える。

 このような指示の絶対化は単なるリーダーであることから、自己の権力者化を条件としなければ成り立たない。

 自分の判断は常に正しい、間違ってはいないとする自己判断が絶対化したとき、指示の絶対化(=絶対命令)へと進み、指示の絶対化が指示者をして権力者とさせる経緯を取る。

 さらに進んで権力者が持つ権力を絶対化させたとき、その権力は独裁化し、権力者は独裁者として君臨することになる。

 また指示・命令の絶対化から進んだ権力者の独裁化は指示・命令を受ける側(=被指示者)をして無条件の従属によって可能とさせるから、自己判断を許さない非自律的存在化を条件として成り立つ。このことを裏返すと、独裁は周囲の者の自律とは相容れない行動様式だと言うことができる。自己を非自律的存在とすることによって出現を許す存在性だと言い直すこともできる。

 権力者の独裁者化は権力のお裾分けに与って自らも権力者に見習い、僅かながらにも借り着の権力を揮(ふる)う権力者の取り巻き等の者を除いて、いわば権力の独裁によって精神的・物質的利益を享受できない者をして限りなく自律的存在であることを剥いでいき、非自律化させていくと言うこともできる。

 もう二、三十年も前になるかもしれないが、朝日新聞の投書欄にあった話で、60~70歳の年齢の女性が戦前、大日本婦人会支部の支部長とかをやっていて、当時は充実した日々を送って、自分の人生にとって一番生き生きしていた時代だった、当時が懐かしいといった内容の投書があった。

 それはそうだろうと思った。会員の上に立つ支部長とかの権力を手に入れ、投書には書いてなかったが、「お国のため」、「天皇陛下のため」と会員や町内の婦人たちを命令口調で思いのままに動かしていただろうから。

 命令される方は、国賊だ、スパイだ、非国民だと理不尽に扱われたくないから、長い物には巻かれろの自己判断を放棄した非自律的存在へと自らを追いやり、仕方なく動く。反対する者はなく、すべて言いなりに動いてくれるのだから、充実した日々でないはずはない。人を自分の指示通りに動かす権力の甘い蜜の味に酔い痴れたに違いない。

 自身が大日本婦人会という権力組織をバックにその権力を体現していたとは気づかなかったのだろう。さらにその背後に軍部の権力や天皇の権力、あるいは日の丸を掲揚していたなら、当時は有無を言わせないその権威が控えていたからこその自身の権力――虎の威を借りた権力だとは気づかないまま、例えそれがミニ(小型)のものであっても、独裁権力化させていた結果の人を言いなりに動かす充実した活動・活躍の類だったのだろう。

 それが自分の人生にとって一番生き生きしていた充実した時代の正体に違いない。

 戦前の日本でこのように自分が所属する狭い世界でミニ独裁者となって君臨していたのはこの婦人だけではなく、町内会や隣組といった男たちの間にも広がっていた、日本全体から見たらゴマンと存在していた独裁状況ではなかったろうか。

 権力の独裁性は学校の集団いじめの場面でも展開される。いじめの首謀者がいじめ仲間に対し腕力や喧嘩の強さを武器に絶対的権力を持って独裁者として君臨していた場合、指示・命令の絶対的遂行が自己の権力を証明する道具でもあるから、首謀者のいじめの指示・命令は絶対となり、仲間は自分の判断としてはノーと言う拒絶反応を示していたとしても、逆らった場合の懲罰・仕返しが怖くて自己判断を抑圧・抹殺して自己自身で自己を非自律的存在に貶め、いじめの生贄(=犠牲者)に対して例えそれが残酷な性格の仕打ちであっても、指示・命令されたとおりに従属的に、あるいは自身の活躍が評価されて信頼を獲ち得ることを望んで指示・命令以上のことを無条件・無考え(=非自律的)にいじめを実行することになる。結果としてその種のいじめは陰湿・凶悪ないじめとなる。

 仲間たちの忠実な実行によって首謀者の権力の偉大さが証明される。何という倒錯世界だろう。

 体育会系の部活の先輩対後輩の間でも先輩による後輩に対する暴力的ないじめがしばしば生じるから、権力の独裁化が存在する証拠となる。逆説するなら、権力の独裁化なくして、陰湿ないじめは起きないと言える。

 この関係に於いても独裁者化した先輩に対して非自律的存在と化した後輩の関係を見ることができる。

 職場に於けるパワーハラスメントも同じ構造を取った人間関係であろう。地位に付属する権力をその権力に抗うことができない部下の弱い立場を利用して絶対化し、独裁化にまで高め、できもしない指示・命令を下して窮地に追い込むいじめを働く。あるいは仕事に関係のない人格や尊厳を傷つける言葉を吐いて、非人間的扱いをする。

 以上のような独裁者は、その程度は様々だが、社会のどこにでも存在する。出発点は何らかの権力を握った者が自己の判断を絶対化することによって始まる。自己判断の絶対化が自己自身の絶対化へと進み、自己を独裁者的存在へと高めていく。併行して対人的非自律化を推し進めていくことになる。

 自己の判断を絶対とせずに、議論を重ねてその判断をよりよい内容を持たせていくことが権力の独裁化を防ぐ有効な方法ではないだろうか。
 
 最後に、自己権力を絶対化させた社会の独裁者というものは往々にして自分の気に入らない行動を取る者を公の場だろうが何だろうが構わずにバカ呼ばわりをする。あくまでも自己を絶対者に置いているからできるバカ呼ばわりであるが、中央・地方の政治家の中に何人か名前を挙げることができるのではないだろうか。

ろう。


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