3月8日土曜日の夜7時半からNHKで「日本のこれから、『大丈夫ですか?日本の学力』技術立国の危機?市民40人大激論」なる番組を流していた。例のOECD(経済協力開発機構)が行った国際学習到達度調査(PISA)で日本人生徒の思考力や理解力、応用力が基礎学力に比較して劣るという結果を受けて前者の学力向上が盛んに言われるようになったが、一方で基礎学力の充実を重視する声も高まっていた。
NHKの番組も、ゆとり教育、総合学習を支持する声がある一方で、「思考力だ、応用力だと言っても、基礎知識がしっかりしていなければ、思考力・応用力につながらない。基礎学力をつけることこそ大切なのだから、授業時間増は止むを得ない」、「ゆとり教育の導入以来基礎学力自体も低下しているのだから、先ずは基礎学力の向上に努めるべきで、そのためには総合学習の時間の削減も必要だ」と、ほんのちょっと覗いた限りでは従来的な同じ繰返しの議論を展開していた。
日本の学校教育に於ける「基礎学力」が暗記知識の詰め込みによって成り立っている学力だという認識がないから、堂々巡りの議論になる。当然のこととして暗記知識は詰め込む量が勝負となるから、より多くの知識を詰め込み、暗記するためには知識量に応じてより多くの授業時間が必要になるのは当たり前のことで、ゆとり教育で授業時間を削減した結果の学力低下に過ぎないのだから、暗記教育下では知識量と授業時間数が常に比例関係にあることを念頭に置かなければならない。
いわばゆとり教育と称して授業時間を減らした結果学力低下が生じた教育状況自体が「基礎学力」と言っている日本の教育の知識が暗記知識で成り立っていることを何よりも雄弁に物語っているのである。
民間人初の校長とかで有名となった杉並区立和田中学校の藤原和博校長が「基礎学力をつけるためには少なくとも小学校の間は反復練習が必要だ」と言っていたが、「基礎学力」なるものが暗記式詰め込みによって成り立つ学力であることを本人は気づかないままに言い当てた言葉となっている。
「基礎学力」と言っている学力が暗記学力だという認識がない堂々巡りの議論だったものだから、ほんのちょっと見ただけで最後まで見る気力をなくし、録画しても、あとで3時間も見直すのは年のせいか億劫になって録画もせず、内藤大助の初防衛戦となるWBC世界フライ級タイトルマッチの実況放送の方に早々にチャンネルを変えてしまった。
「基礎知識がしっかりしていなければ、思考力・応用力につながらない」と言うが、それが暗記知識の場合、思考力・応用力の基礎足り得ない。教えられた知識をなぞって暗記する知識授受の構造自体に「考えるプロセス」(=思考プロセス)が抜け落ちているからだ。そこに「考えるプロセス」(=思考プロセス)が少しでも介在していたなら、思考の機会が増え、思考力はついていき、やがて応用力に発展していくが、そのプロセスを欠いているから、なぞった知識の量が増えるだけで終わる。
どこのテレビ局か、9日の日曜日か8日の土曜日の夜のバラエティ番組で、「ながら見」だったから適当にしか記憶していないが、合格倍率4倍の高校の入学を目指している中学3年生の女の子がいて、台湾だかの奥地に幸せを呼ぶ珍しい蝶がいる、それを見つけるといいことがあるからと、合格の願いを託すためにテレビ局が用意した旅に出る番組があった。
同行者は妹2人と現地の案内人、それに番組の案内役の勝俣とかいうお笑い芸人が一人の計5人、あとはスタッフ。
珍しい蝶だから、なかなか見つからない。簡単に見つかったなら、番組自体が成り立たなくなってしまう。雨が振り、蝶は葉の下に隠れてしまっているだろうから、今日はここに一泊して明日の朝早くから探そうと現地案内人に言われてテントで一泊することになる。局のお膳立てなのかもしれないが、倍率4倍の難関を突破すべく高校入試を控えた中学三年ということだからなのだろう、テントの中で妹相手に受験勉強のおさらいを始める。
妹が参考書を読み上げる、「645年に中大兄皇子が中臣鎌足と謀って蘇我蝦夷と入鹿親子を滅ぼして行った改革は何か?」
姉「大化の改新」
妹「正解」と言ったと思う。
妹「南北戦争で北軍を指導し、1863年に奴隷解放宣言を出したアメリカ大領は誰?」
姉「奴隷解放宣言?そんなのあったけか」とか何とか言って、答えることができない
こういったことを覚えさせる教育が「基礎知識教育」と言うなら、私が中学生だった50年以上も前と何ら変らない知識の暗記とそれを試す教育でしかない。鎌倉幕府の開設は「イイクニ――1192年」、開設者は源頼朝と暗記した。
誰にとっても答が一つと決まっていて、それぞれが暗記していた歴史的事実からその一つを答として提示しさえすればそれで完結する知識なのだから、そこにどのような思考を求めることができるというのだろうか。
授業自体が教師が項目的な知識を伝え、生徒がそれをなぞって暗記する構造となっているから、試験の形式も項目化したコマ切れの知識を問うこととなり、生徒は頭の中に暗記した問いに相当する項目を答として引き出すだけとなる。
授業に於ける知識授受がそうであるように質問と答の間に「考えるプロセス」(=思考プロセス)を脱落させている。「なぜ」と考えることを要求する思考機会を欠いている。
そういった暗記式知識授受を習慣としていて、テストで「思考力」、「応用力」を問う質問を用意しても、元々「考える」土台のないところに満足に接木が育つはずはない。付け焼き刃に終わる可能性大である。参考書会社が「思考力」・「応用力」を問う試験にも対応できる「傾向と対策」を盛った参考書を発行するだろうから、その方面のテストもある程度は暗記で対応できることとなった場合、暗記能力に磨きがかかっても、「思考力」・「応用力」への磨きに進まないといった皮肉な現象が起きない保証はない。
教育の構造を知識をなぞるだけの暗記教育から「なぜ」と考えさせる授業に変えていかなければ、いつまでも「思考能力」、「応用力」は育たない。
日本の教育が暗記教育であり、「思考力」や「応用力」を育むこととなっていないもう一つの例を挙げてみる。
教頭時代の元教え子だった20代の女性に交際を強要する脅迫メールを繰返し送っていた脅迫容疑で川口市の市立高校の校長(56)が8日に逮捕されたが、逮捕当日に卒業式があって、校長はそこで「卒業生に贈る言葉」を述べていたと10日のNHKの朝のニュースでやっていた。
「現代社会はインターネットや携帯電話などが普及する反面、人と人との直接的なコミュニケーションが不足し、人間関係が希薄になっていると言われています。共に認め合う、共に高め合うことができる人間関係をつくってほしいと願っています。一人ひとりが社会の一員として自覚と責任ある行動をすることが求められています」と言ったそうだ。
言っていることの内容は世間で多くの人間が言っていることで、その体裁のいいなぞりに過ぎない。世間が言っている情報を自身の思考を介して自分なりに解釈する自分なりの応用で以て自分独自の思考、自分独自の情報に確立するところまでいっていない。
いわば学校教育者で、かつ校長まで務めている人間でありながら、単に暗記した社会的知識をもっともらしげになぞって「卒業生に贈る言葉」に機械的に当てはめたに過ぎない。生徒がテストの回答に暗記した知識をなぞったまま当てはめるのと同じ構図を踏んでいるのは両者が暗記知識を授与する側とそれを受容する側の関係にあるのだから、当然の成り行きである。
インタネット時代、携帯電話時代に「人と人との直接的なコミュニケーション」を希薄化から守るにはどうしたらいいか、「共に認め合う、共に高め合うことができる人間関係」はどうしたら築くことができるか――社会的に一般化している主張を自分なりの思考で味付けして自己独自の情報としたとき、暗記式なぞり知識から脱して初めて自己自身の主張とすることができる。
生徒を指導する学校教育者・高校校長でありながら、それができなかった。高校校長の「生徒に贈る言葉」一つをとっても暗記教育に毒された暗記式思考の罷り通りが如何に蔓延しているか、そのことが「思考力」・「応用力」への育みを如何に蝕む原因となっている物語って余りある。
自分の「思考」、自分の言葉を持たない人間が高校改革のホープに目されていたというのだから、元教え子に脅迫メールを送りつける倫理観欠如と併せたその逆説は滑稽そのものと言える。
どちらにしても、「基礎学力をつけることが教育の基本だ」、「いや、思考力をつけるには総合学習形式の授業を増やすべきだ」といった堂々巡りの議論を延々と続ければいい。確かなこととして言えることは、授業時間を増やせば日本の教育が暗記教育だから、テストの点数を上げることはできる、思考力・応用力を問うテストもそれなりの暗記訓練で点数を上げることができるようになるだろうということである。