3月20日の「北京週報」が「一部の国がチベット問題を口実にしての五輪ボイコットしようとする行為を非難した」とする記事を載せている。
首都イスラマバードで羅照輝中国大使と会談したパキスタンのイナム・ウル・ハク外相――
「このほど、一部の者は、チベットで次々と暴力事件を起こし、社会の安定を乱し、中国の領土保全と北京オリンピックを破壊しようとしているが、パキスタンはこの行為を強く非難する。オリンピックは世界の人々にとって重要な競技の盛典であるため、北京オリンピックを撹乱しようとすることは、中国ひいては世界の人々の利益を損なうことだ」
オーストラリアオリンピック委員会のハービー副議長は20日記者のインタビューに答えて――
「如何なる北京オリンピックをボイコットしようとする企みも無駄なことである。北京オリンピックは予定どおりに開催されるものと信じている」
韓国華人中国平和統一促進連合総会、中国在韓同郷聯誼総会、韓国ソウル中国華僑協会など15の団体が共同声明を発表――
「ダライ・ラマ一味が世界の反中勢力と結託して、国を分裂させ、オリンピックを撹乱しようとする行為を強く非難する」
中国政府側の立場に立つなら、当然の記事内容である。北京オリンピックを何の支障もなく平穏無事に開催に漕ぎつけて平穏無事に終了することのみを至上命題としている中国政府の代弁者に過ぎないだろうから。そのためには是が非でもチベット問題を切り離さなければならない。
裏を返すなら、一国でもチベット問題で抗議の北京オリンピックボイコットといったことが起これば、人権問題でチベットに得点を与えて自らの汚点となる事態へと進むばかりか、自らの威信を傷つけ、内外に中国の失態を記憶させかねない。そのための国家を代表するわけでもない、事実かどうか分からないが「15団体」まで持ち出して張り巡らした必死なまでのボイコットの動きに対する予防線であろう。
ボイコットは中国の対チベット人権抑圧と共に現代史に消すことのできない出来事として記録され、多くの人間に記憶されて、以降のオリンピック開催のたびにその記憶は新たにされかねない。当然のこととして中国の人権抑圧政策への圧力ともなり得る。
そのことだけでもボイコットは意義がある。
3月21日付の「VOICE OF INDIA」インターネット記事≪【チベット問題】暴力では何も解決できない≫が暴動の経緯とボイコットを諫める記事を載せている。
< 作者 Sushil Kumar Singh (VOI)
昨年10月、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世に、アメリカでは民間人に贈られる最高の栄誉であるとされる米国議会名誉黄金勲章が贈られた。ダライ・ラマがこの賞を受けたことは、チベット人にとっても大変名誉な出来事であった。この賞の受賞を祝うために、ラサのジョクハン寺院など、チベットでも祝賀会が催された。
チベット僧が何かを祝う時は、寺院にしっくいを塗るのが通例だ。しかし中国の当局これを禁止した。僧侶たちは抗議した。
そして今回の暴動である。チベット人たちは、3月10日を暴動の日と定めた。抗議活動は暴力へと発展し、1989年以来の大規模なものとなった。
89年当時は、まだ携帯電話やパソコン、インターネットなどは一般的ではなかった。チベットを訪れる観光客も少なく、中国人、いわゆる漢族もわずかであった。しかし中国政府は一連の経験から、計画的にチベット自治区に漢族を流入させ、また観光が禁止されていた一部地域を外国人観光客に開放した。
これによって、チベットでも携帯電話やパソコンが普及し始めた。また、北京の政府は青海省の西寧とラサを結ぶ鉄道を開通させた。このような状況下で、チベット人たちが文明の波に押されるのを回避する手立てはない。
今回の暴動では、テクノロジーが重要な役割を果たした。旅行者や地元民が暴動の様子を携帯で撮影し、MMS(Multimedia Messaging Service)で国外の友人に送信し、ネット上に配信された。チベットからの映像素材が他になかったため、これらの映像が20カ国以上のニュース番組で放映された。中国政府の報道官が行った記者会見も、ダラムシャーラーの暫定政府はライブで観ていた。
ダライ・ラマ14世のいるダラムシャーラーの本部では、今回の暴動の正確な被害者数を把握しようとしている。暴動参加者の多くが投降するなかで、ダライ・ラマは、もしこのまま暴力が続くのであれば、指導者の座を降りるとの声明を発表した。引退を示唆することで、彼は自身の支持者と北京政府双方をけん制した。
チベット人は、非暴力を貫かなければならない。暴力を抑制しなければ自身の信仰の尊厳を失いかねない。暴力で対抗すれば、中国側の暴力をも正当化することになってしまうからだ。
一方、中国はチベット人の人権について考えなくてはならない。チベット人は過去7年間、国連人権委員会で協議することを求め続けている。しかしこの訴えは過去7年連続で、投票によって拒否され続けてきた。
実はインドもこれに反対票を投じている。インドを含め多くの国が、この問題は中国内部の問題だと認識している。
また別の大きな問題は、今年8月に開催予定の北京オリンピックである。しかしオリンピックは政治と切り離して考えられるべきだ。誰かがゲームをボイコットするようなことがあれば、次のオリンピックでもまた別の問題のために別の国がボイコットするということもあり得る。そして、ついにはオリンピックが開催されなくなってしまうかもしれない。
しかし、北京オリンピックはチベットにとっても中国にとっても良い影響を与えるはずだ。チベット人が耐える様子を、世界の人々に訴えることができる。中国もオリンピック開催までに、人権問題への取り組みなどの姿勢を世界に示すことができる。北京を開催地に決定した国際オリンピック協会もまた、中国が人権問題を改善することを期待している。
結局のところ、この問題はチベットと中国との話である。解決法も彼らの間でしか見出せないだろう。対話の際は、両者が信頼できる第三者を交えての会談が望まれる。暴力は何も生み出さない。冷静な交渉が有益なのは明らかだ。>・・・・
「結局のところ、この問題はチベットと中国との話である」
記事の筆者は「インドを含め多くの国」がチベットの人権問題を「中国内部の問題」だとしていることと同一歩調を取って、国家を超えてあるべき人間の存在性を国内問題だと矮小化する主張を行っている。ミャンマーの軍政による自国民に対する人権の抑圧も中国政府の立場と同様にミャンマーだけの国内問題としているのだろう。
「チベット人は、非暴力を貫かなければならない。暴力を抑制しなければ自身の信仰の尊厳を失いかねない」とする主張は正当性を獲ち得るかどうかは判定は難しい。ミャンマーの暴動もそうだが、暴動があって、そのことによって露わな姿を取ることとなる抑圧する側の暴力と抑圧の経緯を世界に知らしめることができるからだ。
既にその時点で、国内問題ではなく、国際的な問題となっている。厳密に国内問題とすることができるなら、誰が世界に向けて報道するだろうか。
「国内問題」とする主張に添うなら、日本人ジャーナリスト長井健司さんがミャンマー官憲に至近距離から武力弾圧の意図を働かせた銃弾を撃ち込まれ死に至らしめられたことも、単に外国人が政府と国民との争いに巻き込まれた国内問題として片付けられたろう。
尤もそうであった方が日本政府にとっては厄介事を背負わなくて済んだと思わせたに違いない。しかし長井さんの銃撃死によって日本政府はミャンマーの人権抑圧と向き合わなければならなくなった。それも形だけの向き合いで終わりかねない形勢にある。何一つ解決に向かわず、一度波紋を描いた水面が元に戻ってそこに何も残さないように記憶が風化しつつあるからだ。
外(=国際社会)が騒がなければ、人権抑圧は100%内輪のことで片付けられてしまう。政治体制を維持するための道具でしかなくなる。
そうさせないためには人権問題は国内問題にとどめてはいけないということであろう。それに基本的人権の保障は国籍や民族で違いがあっていいはずはない。人間の本来的な存在性を思想の形に表現したものが基本的人権であって(決してその逆ではない)、その保障は国籍を超えてすべての人間に与えられなければならない。
この指摘が正しいとなれば、基本的人権の保障はすべてに優先する人類存在の原則としなければならない。指摘が正しくないということなら、それまでである。
スポーツに政治は持ち込むべきではない、五輪はスポーツの祭典なのだから、同じように政治を持ち込むべきではないともっともらしい言葉でスポーツを擁護する主張が根強く存在する。だが、それはスポーツと人権問題と天秤にかけた場合、スポーツを優先させる主張であって、基本的人権の保障はすべてに優先するという原則に反することになる。
少なくともそう主張する人間は基本的人権よりもスポーツを優先させている。そのことを自覚すべきだろう。
例え北京オリンピックをボイコットしても、次善の解決策を見い出せないことはない。アテネやシドニー、アトランタ、バルセロナといった過去にオリンピックを開催した都市がオリンピックを開催できる競技場を残していた場合、陸上競技は陸上競技、水上競技は水上競技といった具合に分散開催したなら、時間や余分の予算をそれ程かけなくとも済むだろうし、また訪れる観光客も分散できて、現在あるホテルでほぼ収容可能ではないだろうか。
ボイコットによってではなく、大災害とか戦争とかが勃発して主催者側が急遽中止を余儀なくされる場合を想定して、危機管理の一環から一度分散開催を学習・経験しておくのもいいのではないだろうか。
北京オリンピックボイコットは歴史への記録、人間への記憶を通して対チベットに限らず、対ミャンマー、対自国民に向けた中国の人権抑圧政策に対する圧力に効果を持たせるだけではなく、オリンピックが突然中止された場合の危機管理対応にも役立足せようというわけである。
だが、実際問題としてボイコットする国は一国も現れないに違いない。口ではチベット問題を取り上げながら、世界の大勢はボイコットしない方向を示しているからだ。残る期待は開会式で胸や背中に「ノーモア・チベット」とか「ノーモア・人権抑圧」の文字を描き入れたゼッケンを貼り付けて入場行進をするか、国旗大の布に書き入れてそれを振りかざしながら入場して抗議の姿勢を示す選手が現れることだが。その姿をテレビカメラを通して全世界に知らしめ、中国の人権抑圧政策が然らしめた突発事態として記録させ、記憶させる。
果して何人現れるか。人権意識の薄い日本人にはマネのできない芸当だろうが。