石原慎太郎「犯罪DNA論」からも読み取れる日本人の血の絶対性

2007-03-29 07:16:27 | Weblog

 かの有名な石原「犯罪DNA論」。一頃横行した中国人犯罪の共通した手口から、犯罪手口が中国人の民族的DNAの中に組み込まれているとする主張は中国人のDNAそのものを悪性とする、中国人の根幹に関わる中国人蔑視・中国人劣等視であって、日本人の血を絶対的位置に置いているからこそ展開可能とすることができる比較対照であろう。

 そこには日本人の犯罪性との相対化が一切存在しない。相対化させるだけの認識性を欠乏させているからに他ならない。相対化の阻害要件は自己(=日本人・日本民族)の絶対化なのは言うまでもない。自己絶対化が相対的認識性を抹消してしまう。

 石原慎太郎は自己絶対視の基準を日本人としての自己個人に置いたとき、差別・蔑視は同じ日本人でも身体障害者や高齢女性といった社会的弱者に向かい、日本人全体(=日本民族)に置いた場合、中国人やその他の国の人間に向かうことを可能とする。

 差別・蔑視の標的を特に中国人に集中させるのは、昨今の中国の目覚しい経済発展・経済膨張及び外交能力が優秀だと信じている日本民族の全体性を上回った場合、自己の精神の核としている日本民族優越意識を損ないかねなことへの苛立ち、日本民族の優秀性を裏切ってその失われた10年からの脱却が中国の経済発展・中国特需に力を借りた他力本願であることへの苛立ちが言葉での貶めとなって現れているのではないか。言葉の貶めで中国人そのものを過小評価し、そうすることで苛立った精神のバランスを取るという図式である。

 日本の官僚の水増し請求偽装による裏ガネ作りと、そのカネでの自分の懐を痛めない卑しいばかりの飲み食いにしても、官民談合にしても 省庁の随意契約によるキックバックにしても、天下りによる私腹肥やしにしても、日本の政治家の政務調査費の不正使用にしても、不正な迂回政治献金にしても、政治献金されたカネの政治資金収支報告への意図的な記載隠しにしても、それらの手口は多くの省庁に亘る官僚にほぼ共通し、国会議員から市町村議員にまで亘る多くの日本の政治家に共通することだから、石原「犯罪DNA論」に照らしたなら、それらの薄汚い日本の官僚行為・日本の政治家行為は「日本人のDNA」が仕向けている薄汚いコジキ犯罪と位置づけなければならくなる。

 日本の政治家・官僚はその殆どが大学までの高等教育を受け、中には東京大学・京都大学といった最高学府中の最高峰の卒業生までいる。そういった高度な教養と常識を抱え、人格的にも行い正しい行為が求められる国の機関に携わる人間のコジキ行為と在日中国人が犯す強盗・殺人等を比較した場合、どちらを悪質とし、どちらを低劣とすることができるだろうか。

 中国にも政治家・官僚の汚職・犯罪はあるが、もし石原慎太郎が日本の政治家と日本の官僚のこのような嘆かわしいばかりのコジキ行為の蔓延と中国人犯罪と比較した場合のその低劣さ・悪質さに少しでも目を向ける認識性を持つことができたなら、犯罪手口が中国人の民族的DNAの中に組み込まれているといったことは言えなかったろう。

 このような認識能力のない人間が都知事に当選することは許されるだろうか。

コメント (2)
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