キレイゴトの赤ちゃんポスト忌避論

2007-03-17 07:00:18 | Weblog

 大相撲2日目中継が終わった後のNHK6時のニュース(3月12日)をインターネット記事から検索。

 長勢法務大臣「一般的に言えば、赤ちゃんポストに乳幼児を置き去りにしても、生命や身体に危険を生じさせるおそれがないのであれば、刑法の保護責任者遺棄罪の成立は認めにくい。ただ、具体的に犯罪が成立するかどうかは、事実関係に基づいて捜査機関が判断することだ」

 (「~判断することだ」の後の部分を東京新聞(2007年03月13日)のインターネット記事は「危険の恐れがはっきりしていれば、遺棄罪に全く該当しないということはない」となっている。)

 対する柳沢厚生労働大臣(熊本市の幸山市長が赤ちゃんポストに対する国の見解を文書で示すよう求めていることについて)「赤ちゃんポストの設置には、賛否両論があり、難しい問題だ。ただ、文書で回答すると、厚生労働省が、『一般的に認めた』という誤解を与えるおそれがあるため、文書は出さないほうがよいと考えている」

 日経のインターネット記事の柳沢厚労相の答弁は、「施設設置自体は医療法上違法ではないが、行為については個々のケースによる。すべて児童福祉法、刑法(違反)に当たることがないとまでは言えない」

 同日経記事による政府高官「子捨ての勧めになりかねない」

 7月3日の読売、九州版なのか、それによると、
 安倍首相「匿名で子どもを置いていけるものを作るのがいいか、大変抵抗を感じる」
 塩崎官房長官は「法的解釈の前に、親が子を捨てる問題が起きないよう考えるのが大事」
 高市少子化相も「無責任に子どもを捨てることにつながっては元も子もない」――

 長勢法相も柳沢「生む機械」も、犯罪誘発の可能性をより前面に押し出した説明となっている。政府高官や安部以下が示す危惧への配慮なのか、犯罪の可能性を持ち出すことで積極的認可ではない姿勢を見せている。但し犯罪の可能性を示唆して牽制しようとするあまりにだろう、例え長勢の言う「刑法の保護責任者遺棄」や「産む機械」が言う「児童福祉法、刑法(違反)に当たる」行為があったとしても、それらは第三者による赤ちゃんポストの設置目的を阻害する犯罪に当たるはずが、それを無視して両者がつながっているかのような誤った印象を意図的に与えることになっている。

 今までも「匿名で子どもを置いてい」(安倍)く、「親が子を捨てる」(塩崎)、「無責任に子どもを捨てる」(高市)遺棄はあった。江戸時代は辻番の前、寺の山門の下、あるいは成長して奉公人への可能性を願ってなのだろう、大店の玄関前、それ以降は病院の玄関、あるいは通勤時間になると通行人が溢れる人目のつく場所に捨てて、誰かの手に渡ることを願う。場所という観点から言えば、辻番の前や寺の山門、病院の玄関と同じく、赤ちゃんポストは単なる便宜的スペースに過ぎない。違う点は辻番の前や寺の山門、病院の玄関等への捨て子はそれぞれの活動主体の本来的な活動目的外の事柄であるが、赤ちゃんポストの場合は会社の定款同様に目的・活動が前以て決められている点であろう。赤ちゃんポスト設置主体が自らの目的・活動に反して医者の医療過誤のように犯罪行為があった場合は法に問われなければならないが、設置主体が関与しない形でそこで「犯罪が成立」した場合、赤ちゃんポスト自体が犯罪誘発要件となったからと言って法に問うわけにはいかないはずで、別問題で問うべき事柄であろう。

 問うことができるとしたら、深夜のコンビニは現金強奪を企む人間にとっては好都合な強盗誘発の要件を満たしているからと、日本全国のコンビニを、少なくとも夜間の間は営業禁止にしなければならなくなる。

 一頃パチンコ店近くのパチンコ景品換金所がよく襲われて現金強奪事件が起きたが、だからと言って、換金所の存在自体が問題となったことを聞いたことはない。

 人目につかない場所に既に死んでしまった嬰児・乳児の類を捨てるのは明らかに死体遺棄罪に当たるだろうが、呼吸している新生児等の人目につかない場所への放置は一般的には自力的生命力が脆弱であることを認識し、当然の結果として死へ突き放す可能性が高くなることを予想した行為であるのと違って、人目につく場所への遺棄は逆に自力的生命力の脆弱を補うための行為であり、それはそのまま生への可能性・生育の方向に向けた遺棄行為であろう。死んでもいいやと、わざわざ赤ちゃんポストにまで出かけて捨てるということは、人間の一般性に反するはずである。

 勿論、死んでしまった子の捨て場所に困って、赤ちゃんポストに捨てるケースも生じるかもしれないが、それは別の問題であろう。死体解剖によって死亡推定時間を割り出せるのだから、赤ちゃんポストの設置目的自体の過ちには当らないはずである。

 他に考えられる犯罪は他人の赤ん坊を恨みから盗んだが、困らせてやろうとしたまでで、殺すつもりはなく、テレビの報道等で赤ん坊の両親の散々困った様子を見たところで、赤ちゃんポストに放置するといったケースもあるかもしれない。

 しかしこのケースは下手に人目につかない場所に放置されるよりも子ども自身にとっては有利となる選択・取扱いであって、他に考えられるケースにしても、母親(あるいは父親)自身の行為が例えそれが犯罪行為に当るとしても、あるいは高市少子化担当が言うように「無責任に子どもを捨てる」行為であっても、それらのことを離れて、子供自身の生への可能性に向けた処置、成育維持に向けた措置であるかどうかで、その有効性は判断されるべきではないか。

 もう一つ赤ちゃんポストの考えられる有効性は嬰児である早い段階に預けることによって、例えそれがポストの設置によって社会的につくり出された「子捨ての勧め」の風潮を受けた行為であったしても、捨て子の年齢を超えた子供の育児が面倒になった場合の〝捨てる〟に代わる虐待を方法とした邪魔者扱いで子供の人格を決定的に傷つけたり、最悪死に至らしめてしまう危険を防げるかもしれない、あるいはその数を減らせる可能性である。

 このような可能性が確実視されるなら、逆に赤ちゃんポストを各地に設置して、捨て子の年齢を超えないうちの「子捨ての勧め」を大いに広めるべきではないだろうか。邪魔者になって虐待するようにならないうちに子供のためを思って赤ちゃんポストに預けてくださいと。

 このような子ども自身の生育・生命維持に向けた視点が長勢法相にしても、「産む機械」にしても、政府高官にしても、塩崎官房長官にしても、高市少子化相にしても、当然のことながらいくらでも「美しい」安倍晋三にしても持ち得ていない。育児の慣習を固定的に把え、そこから外れた慣習が呉牛月に喘ぐ類で社会的に一般化することへの恐れのみに視線を向けている。

 「美しい」ばかりの固定観念としか言いようがない。そのことは「産む機械」の「文書で回答すると、厚生労働省が、『一般的に認めた』という誤解を与えるおそれがあるため、文書は出さないほうがよいと考えている」とする方針が証明している。文書回答が国による正式認知・お墨付きを与えることとなって次の赤ちゃんポストにつながった場合、子捨て習慣の広がりを誘発しないか、それへの阻止の狙いからの文書回答拒否なのだろう。

 安倍晋三にしてそうなのだが、下村内閣官房副長官やその他の国家主義者が現在と比較した戦前の「共同体や家族主義」を持ち出すのは戦前の日本社会を善と把えてすべてうまくいっていた矛盾なき時代空間だと価値づけ、固定観念化しているからで、固定観念化はそっくりそのまま客観的認識能力の欠如が可能とする思考性であろう。そのような主張が彼らの主たる思想・哲学となっている。客観的認識性の欠如からの固定観念が、産んだ親が子供を育てる一般的プロセスから外れる〝育児の形〟あるいは〝成長の形〟に単純・単細胞に拒絶反応を発疹させる。

 戦前の日本の戦争も、アジアの解放の聖戦だった、アジアの植民地解放の戦争だった、あるいは自存自衛の戦争だったとすることで、戦前日本の絶対性・無矛盾に整合性を与えることができる。その一方で、「格差はどの時代、どの社会にも存在した」と自らの戦前を善とする論理を裏切る矛盾したことを平気で強弁する。強弁できる鉄面皮・恥知らずにしても客観的認識能力の欠如が可能としている態度であろう。

 「格差」は政治や国民が関わってつくり出した国の矛盾、あるいは社会の矛盾の一つである。自分たちの無神経・鈍感さにあくまでも気づかない。

 戦前の「共同体や家族主義」が決して善ばかりではないこと、絶対性・無矛盾を備えていたわけではないことを前々回の『安倍・腰巾着下村の軽薄政治思想』(07.3.11)では人身売買や集団就職等で解説したが、今回は捨て子を例にして説明してみようと思う。

 『大日本史広辞典』(山川出版社)から【捨子】の項目の引用。

「棄子・棄児とも。子どもを捨てること。また捨てられた子をいう。基本的には間引きや堕胎と違い、その死を望まず、親権や扶養義務を一方的に移す養子入りの一つといえた。かつての家は労働力に非親族の住込み奉公人を必要とし、子育ても多様な仮親慣行が示すように、生みの親が全責任を負うものではなく、貰い子や養子奉公人の延長として捨子が受容された。近代以降激減し、それと反比例して大正末期以降、親子心中が急増するのは、家のあり方の構造的変容と、子育てを生みの親の全責任と見る育児観の変化による。現実の捨子の他、一時的に子どもを辻などに捨てる儀礼的な捨子や、蛭子(ひるこ)や熊野の本地、酒天童子・弁慶・金太郎など、神話や昔話のなかで活躍する捨子の英雄も注目される」

「その死を望まず、親権や扶養義務を一方的に移す養子入りの一つといえた」――まさしく赤ちゃんポストの利用は、江戸時代の決して悪い意味ではない捨て子の延長にある形態と言える。
 
 但し上記慣習はいわば主として町(都市)に於ける慣習であって、村(農村)の慣習は間引き・子殺し、あるいは売って金銭収入の対象とする人身売買を主たる内容としていたはずである。『近世農民史』(児玉幸多著・吉川弘文館)には「武士や町人の間では堕胎が多かったが、農村では多く圧死させた」の一節がある。堕胎は江戸時代に産婦人科の医学流派である中条流があり、「後世産婦人科の代名詞ともなり、堕胎術者を中条流というようにもなった」(『日本史広辞典』)と言うから、そういった面々が行ったのだろう。外科的中絶ではなく、クスリを使った流産が主流ではなかったのではないだろうか。いずれにしても、町には捨て子を拾う需要があったが、村にはなかったことが背景となった異なる慣習と言うことなのだろう。これも格差の一つと言える。

 上記『大日本史広辞典』(山川出版社)の【捨子】の解説は捨て子を肯定的に把えているが、利害の生きものである人間の利害が絡まなかったとは考えにくいことで、一方で間引き、堕胎、人身売買といった慣習があったことを考え併せると、捨て子に関わる慣習のすべてを肯定的に把えることは難しい。

 捨て子を引き受けた上で自身で養育するか、あるいはカネを出して他人に養育させ、一定の年齢に達したなら、商家や職人の家に労働力として養育にかかった以上の値段で斡旋・売買して利益とするといったことも行われていたのではないだろうか。女の子なら、12、3歳まで育てて、女郎屋に禿(かむろ・かぶろ/上位の遊女の身の回りの世話をする13,4歳頃までの見習いの少女)として売る。いわば人買いを介さない斡旋・売買の形式であり、女郎屋にしたら、形式は問わなかったはずである。自分の妻子でも質に入れてカネにし、その返済に妻子を奉公(労働)させる〝質奉公〟が慣習として存在していた。直接売らなくても、捨て子を育ててから質奉公の形でカネに変えることはできただろうが、農村で存在していた直接売る人身売買が江戸といった都市の住民間でも存在していたとしても矛盾はないはずである。

 間引きといった嬰児殺しや堕胎、捨て子とのような広い範囲で行われていた慣習や、『大日本史広辞典』が解説しているように捨て子が「近代以降激減し、それと反比例して大正末期以降、親子心中が急増する」時代変遷、あるいは江戸以前の古い時代から戦後昭和の時代まで続いた人身売買等の(現在では日本人同士から対東南アジアの女性に売買の対象を変えている)、そうあるべきとする家族関係を壊す慣習としての制度・矛盾を抱えていたかつての「共同体や家族主義」と比較するだけでも、政府高官の「子捨ての勧めになりかねない」、「美しい」人間安倍晋三の「匿名で子どもを置いていけるものを作るのがいいか、大変抵抗を感じる」、いつも眠そうな目をした塩崎パッとしない官房長官の「法的解釈の前に、親が子を捨てる問題が起きないよう考えるのが大事」、高市女史の「無責任に子どもを捨てることにつながっては元も子もない」が言い表している「共同体や家族主義」観が絶対性・無矛盾を固定観念としたキレイゴトであることを如実に暴露している。

 いわば赤ちゃんポストが少しは言っていることを助長したとしても、設置しなくてもなくならない防ぎようのない矛盾でしかないことを歴史は証明しているはずだが、歴史認識や人間の現実の姿に対する認識を欠いることが結果としてキレイゴトの赤ちゃんポスト忌避論となってしまっている。

 最後に中国新聞のインターネット記事から『熊本の赤ちゃんポスト、許可へ 「国の文書なしでも」熊本市長 』(07/3/8) を引用。

 熊本市の慈恵病院が設置を計画している「赤ちゃんポスト」について、幸山政史熊本市長は八日、「国の(見解を示す)文書がなくても、基本的な考え方は変わるものではない」と、設置許可の方針に変わりがないことを表明した。
 市が厚生労働省に求めた「法令上問題はない」との見解の文書化について、厚労省の辻哲夫事務次官が八日の定例会見で「そういうことは考えづらい」と、文書では回答しない意向を示したのを受けて述べた。
 幸山市長は「文書は国のお墨付きが欲しくて求めたのではない。今後、問題がいろいろなところに波及する可能性があるので、連携して考えていただきたいという確認の意味だった」と説明。
 さらに「文書化が難しいなら(口頭で)再度、確認して判断したい」と、近く市長自身か担当者が上京する意向を明らかにした。
 辻次官はこの日「法律的な見解は変わらない」と強調した上で「子供を捨てることはあってはならず、助長してはならないことも十分認識している」と、法解釈とは別に倫理的な問題があることをあらためて指摘。
 「そういう状況の中であえて文書を出すかどうか」と述べ、文書にした場合、国が全面的にお墨付きを与えたとの誤解が生じることへの懸念を示した。――

 何とま婉曲的、うじうじと煮え切らない国の姿勢だろうか。絶対正義にしても絶対善にしても、絶対公平にしても、絶対と名がつく価値観は存在しない。そういったモノを創るだけの能力を人間が持たないからなのは言うまでもない。当然絶対を前提とすることは間違いということになる。プラスマイナスの比較によって、有効性よりも弊害の方が多いということなら、改めればいい問題ではないか。大体が政治家のカネの問題や官僚の天下りといった改めるべきと確定している問題さえも改めることができないでいながら、絶対を求める。無矛盾を求める。このことにしても、キレイゴトということなのだろうか。

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