安倍首相が従軍慰安婦を認めたくない理由

2007-03-10 09:56:15 | Weblog

 「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」

 答はすべてこの言葉の中に収まっている。国家主義者安倍晋三の核心をなす思想であろう。

 簡単に結論を言えば、女性を斡旋する業者という民間人ならまだしも、国家に直接関わる官憲が従軍慰安婦問題に関与していたとするのは、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」であることを完全否定することになるからである。

 資料が発見されるまでは、言葉ではなく、事実の存在が問題であるにも関わらず、「従軍慰安婦という言葉は当時は存在していなかった」という狡猾な詭弁まで用いて、一切を否定していた。

 安倍晋三は昨年(06年)9月1日の自民党総裁選立候補表明で「美しい国、日本」と題した政権公約を発表した。そのとき「『美しい』という言葉を使った経緯は」と記者から問われて、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ。日本の麗しさ、すばらしさを再構築しなければならないという思いで使った」と答えている。

 「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」とする考え方の根底には、日本人、あるいは日本民族は優れているとする優越性、その言い替えの言葉である、無誤謬性の文脈で日本人、あるいは日本民族を把える意識がセットされている。

 実際には「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」資質は個人性に関わる、なかなか実現させにくい長所・美点であって、それを無視して国民全体、民族全体に本来的に備わっている資質と見なすには、余程の独善的な過信・独善的な錯覚なくして成り立たない優越性、あるいは無誤謬性であろう。

 花の姿や自然の姿を「美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことは誰にとってもたやすいが、自身の「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことは自己利害に動かされ、自己利害にのみ目を向けがちな人間という生きものにとって、そうそう容易な振舞いではない。それを国民性・民族性とすること自体、土台無理な話だが、もしも「敏感に感じ取る国民」であったなら、跡を絶たない醜悪なまでにカネにイヤシイ政治家・官僚は一人として存在しない日本の姿でなければならない。
 
 実際にはゴマンと存在するその矛盾の原因を戦後の民主化による個人の権利の行き過ぎを要因として日本人の生き方が変わったためとし、そのように戦前の姿と断絶することとなって失った日本の優越性・無誤謬性を戦後政治・戦後社会を克服することで戦前と戦後に連続性を持たせることができると見定めている。そのための「戦後レジームからの脱却」の提唱であろう。

 「戦後レジームからの脱却」によってのみ、「日本の麗しさ、すばらしさを再構築」可能としているのである。簡単に言えば、政治・社会を含めた戦後の否定であり、戦前の肯定である。安倍晋三が国家主義者たる所以がここにある。

 いわば戦後は「日本の麗しさ、すばらしさを」失ってしまって、戦前同様に「再構築しなければならない」。手本とすることができるほどに戦前の日本は「麗しさ、すばらしさ」を身を以て体現していた。戦前は戦後の現在と違って、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」った。何という優越性・無誤謬性なのだろうか。

 戦前と戦後に連続性を与える認知容易な一般的な道具立てとして、国家・民族を別途表現する、当然同じ優越性・無誤謬性(「麗しさ、すばらしさ」)で彩らせた日本の歴史・伝統・文化が活用されることになる。その最高位に位置する日本の歴史・伝統・文化が日本国天皇が持つ〝万世一系〟性であろう。万世一系と日本の歴史・伝統・文化はコインの表裏をなす。表裏とすることで、日本の歴史・伝統・文化の優越性・無誤謬性が簡単容易に証明可能となる。

 優越性・無誤謬性(「麗しさ、すばらしさ」)に彩られた戦前までの日本の歴史・伝統・文化で戦後の失われた日本を包む。戦前を否定する「歴史の見直し」によって、戦後の日本を払拭しなければならない。そのための次の必要不可欠な道具立てが愛国心教育であろう。当然このような思想から導き出される〝愛国〟の対象内容は優越性・無誤謬性を体現していた戦前の日本国家でなければならない。

 戦前の日本が優越性と無誤謬性を体現していた(「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」)とするとき、それを無化・否定する因子として、侵略戦争行為、南京虐殺に代表される日本兵の虐待・虐殺といった残虐行為、集団強姦に等しい従軍慰安婦問題、人間性否定の強制連行労働等々は認めがたい事柄の数々となる。日本民族の胎内に悪意を持って侵入し、民族の優越性・無誤謬性を攻撃する異分子・異物として撃退・排出して優越性・無誤謬性に常に瑕疵なき整合性を与え続けなければならない。それが国家主義者たちにとっては止むに止まれぬ気持からという表現となっている「歴史の見直し」衝動となって現れている。

 戦前の大日本帝国軍隊の侵略行為、その他の反道徳行為を事実と認めて、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」・民族であるとする論理(優越性・無誤謬性)を破綻させたとき、いわば戦前の日本を無化・否定することは自らの国家主義思想の無化・否定に他ならず、認めがたい方向を取ることになる。

 しかし戦後日本の矛盾・欠陥は戦後民主主義の権利意識に責任を課すことで整合性を保てたとしても、戦前の行為に於いては資料が発見された範囲で認めなければ、日本民族の優越性・無誤謬性(=「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」)は一転して唯我独尊の偽善思想に過ぎなかったと化けの皮を曝す両刃の剣と化す。このような経緯が確実な資料がない場合は、それを逆手に取った南京虐殺の否定、あるいは虐殺された中国人人数の過少見積り、従軍慰安婦の業者の強制性は認めたとしても、官憲による強制性は認めない姿勢の主たる理由であろう。

 自民族を絶対とするのに、誤謬も矛盾も抱えていない絶対的な権威を必要とする。それが万世一系の天皇であったり、日本の歴史・伝統・文化であったり、それらを意識に据えた愛国心であったりする。一個の人間として立つことができない、内容空疎な人間ほど、権威を必要とする。狐が虎の威を借りるように。一人一人が個人として立つ。それができないから、権威を纏って、これが俺だ、と宣言する。これが日本人だと知らしめなければならない。

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