国立教育政策研究所のHPで次のような文章に出会った。
「国立教育政策研究所生徒指導研究センターでは、平成17年9月に文部科学省より出された「新・児童生徒の問題行動対策重点プログラム(中間まとめ)」を受けて、文部科学省初等中等教育局児童生徒課とともに昨年11月より本年3月にかけて「生徒指導体制の在り方についての調査研究」を行ってきました。
このたび、調査研究報告書がまとまりましたので、別添のとおり全文を掲載します。
製本冊子については、国立・公立・私立の小学校、中学校、高等学校等の学校分を含め、(今年平成18年の)7月中に各都道府県教育委員会等へ送付する予定です。」
「別添のとおり全文を掲載します」は「『生徒指導体制の在り方についての調査研究』報告書」という題名でPDF化したファイルのことを指している。何も余分なカネと手間をかけずに、メールで各都道府県市町村教育委員会にPDFファイルのアドレスを伝えて、各教育委員会から各学校にさらにメールで知らせ、各学校でPDFファイルをダウンロードして必要部数を印刷すれば、時間もカネも手間も節約できると素人目には思えるが、わざわざ「製本冊子」にして送料までかけて「7月中に各都道府県教育委員会等へ送付する予定」だと言う。
IT(情報技術)とは情報機器の技術性、あるいは高度性といったことや情報機器使用時の物理的環境設備といったモノの面だけを言うのではなく、情報機器を使って情報をどういう内容にしてどう伝え、どう役立たせるか、伝達を仲立ちとした情報の表現とその具体的実用化といった創造的活用面を併せた技術を言うのであって、そのことによって個々の仕事を含めた社会活動・社会生活の簡略化・効率化及び創造的な発展化を行うことを目的としているはずである。
いわば「報告書」の中身とその中身を如何に役立てることができるかが重要な問題であって、その形式が「製本冊子」の体裁を取ろうが取るまいがさしたる意味はないはずである。それとも、金表紙にしたら、価値が出るとでも言うのだろうか。
そんなことは誰に指摘されるまでもなく分かりきっていることで、「製本冊子」をOBが天下りしている下請けに随意契約で印刷依頼して、自分が天下りする先々のことを考え天下り役人に甘い汁を与えると同時に、監修料名目で契約金の一部をキックバックさせて自分も甘い汁を吸う、諸官庁十八番の私益交換を優先させているに過ぎないと言うことなのだろうか。
だとしたら、政治や官庁のムダ遣いをもターゲットに入れた小泉構造改革は特に足元に於いてなお一層の不完全状態で推移することになり、財政改革は形式だけの覚束ないものとなる。尤も消費税率を余分に上げて国民にだけ痛みを分け与えれば、問題はあっさりと片付く。
もしも「報告書」の中身は変わらないのだから、直接ダウンロードさせようが、「製本冊子」にして配布しようが構わないではないかといった考えでいるとしたら、簡略化・効率化及び創造的な発展化へより多く向けるべきエネルギー(=意識・視線)の欠落を示すもので、そのことは当然のこととして、情報の創造的活用へのエネルギー(=意識・視線)の欠落を表裏一体としなければならない。
このことは文部科学省が、以前は文部省が学習指導要領にいくら立派な条文を並べたとしても、教育現場で条文どおりの世界を築くことができない情報の創造的活用面の機能不全となって現れているもう当たり前のこととなっている欠落と同じ構図に至る考えを示すものだろう。
あるいは経産省が学歴優秀な人材を揃え、隙のない万全な職務規定を制定した一大組織であったとしても、パロマ側からパロマ製品の湯沸かし器事故に関わる報告を受け、事故の多くを把握していながら、有効な対応策を取ることも指示することもできずに結果としてパロマ側共々死亡事故及び死亡事故発生を放置してきた職務不全にしても、情報の創造的活用の欠落から来ている問題であろう。
創造性と言えば、何度でも例に挙げることだが、佐々木正・元シャープ副社長をして言わしめ、その他にも多くの人間が指摘している、モノづくりは得意だが「独創的原理はしばしば欧米発で、明治以来の模倣ぐせが身についた日本の限界」(2001.3.24.「朝日」朝刊)だとする〝独創性〟(=創造性)の欠落は、IT(情報技術)のモノの面はカネ(研究費)と時間(研究時間)と人間(研究者)の投入によって解決できる問題であるが、IT(情報技術)の創造的活用面は、政治家・官僚に関しては各種法律や各政策に込める思想及びその具体的運用に関わる方法論と相互に影響し合う事柄でもあり、学歴やカネで解決することは決してできないことに対応した(カネで政治家を動かして自己に都合のいい政策を通そうとすることはできるが)日本(人)に於けるモノと独創性(=創造性)の関係から生じていることだろう。
勿論のこと「模倣ぐせ」は「明治以来」ではなく、大和政権成立以来、あるいはそれ以前からのもので、日本の歴史・伝統・文化としている。
またこの構図自体も大和政権成立以来、あるいはそれ以前から日本人が情報の創造的活用に関わる「原理」を歴史・伝統・文化的に自ら独創(創造)できていないことを示している。
ところが、IT(情報技術)のモノの面と創造的活用面を区別できずに、区別できるだけの創造性もないのだろう、モノの面のみを誇って日本が世界の先頭に立っているとする新聞記事(03年7月4日『朝日』夕刊)がある。
「IT『日本、世界を先導』情報通信白書、トップ水準を強調」
「片山総務相は4日、03年版の『情報通信に関する現状報告(情報通信白書)』を閣議に報告し、了承された。携帯電話や携帯端末の普及により、米国が先導してきたパソコン中心の情報技術(IT)の拡大は『限界を露呈している』とする一方、日本が追いつく段階から先導役に移行しつつあると指摘。携帯端末などを通じて、どこでもインターネットに接続できる『ユビキタス』分野で、日本が世界をリードしていく必要があると主張している。
白書は、ブロードバンド(高速・大容量通信)や第3世代携帯電話などITの先端分野で、日本がすでに世界のトップ水準に達していることを強調している。・・・・・」
同記事によると、「主要国の携帯電話のインターネット対応率」では、日本が79.2%のトップに対して、韓国が74.9%の第2位、アメリカは8.9%の9カ国中の最下位にとどまっている。日本の79.2%に対するアメリカの8.9%――数字だけから判断するなら、これでは誇らずにいられないだろう。裏を返すなら、数字だけからしか判断できなかったと言うことでもある。
上記「情報通信白書」で「米国が先導してきたパソコン中心の情報技術(IT)の拡大は『限界を露呈している』」と一蹴してから1年半も経過すれば、日本はアメリカの遥か先を走っていていいはずだが、世界経済フォーラム(WEF、本部ジュネーブ)の調査内容を報じた「IT競争力、日本『10傑』入り・技術力評価8位に上昇」(05.3.10.『朝日』朝刊)は、「IT『日本、世界を先導』」を否定する記事となっている。
「世界経済フォーラム(WEF、本部ジュネーブ)は9日、インターネットなど情報技術(IT)への対応能力や普及度を指数化した04年の『世界IT 報告』を発表した。調査対象の104カ国・地域中、日本は初めて『10傑』入りして、8位となり、前年の12位、前々年の20位から続伸した。
IT教育の質や環境整備まで総合的なIT社会の実力、競争力を国際比較したもので、報告は4回目。今回の1位はシンガポールだった。
日本は、『企業の技術吸収力』『研究・開発への投資』で1位など、民間の技術開発分野で強さを維持した。さらに、政府へのITへの取組み優先度を問う項目が2位など、これまで全体の足を引っ張った『官』の積極的な姿勢が順位を上げた。
WEFは『技術革新の実績によって10傑入りした日本は注目に値する』と指摘。アジアでは日本を含む3カ国・地域が10傑以内に入ったほか、インド39位(前年45位)。、中国。41位(同51位)と大幅に順位を上げ、この分野でもアジア地域の『底上げ』が進んでいることを示した。
前年、全5カ国が10位以内に入ったIT最先進地域の北欧は、今回も4カ国が10傑の地位を守った。前回首位だった米国は5位に後退した」
「世界をリード」どころか、やっと「10傑入り」――モノの力である「技術力8位」である。「IT教育の質」といった創造性に関わる分野に関しては特筆されていない。いわば「『企業の技術吸収力』『研究・開発への投資』」と日本政府の「ITへの取組み」といったカネ(技術投資)が押し上げた「10傑」、「技術力8位」で、それは03年版「情報通信白書」で「携帯端末などを通じて、どこでもインターネットに接続できる『ユビキタス』分野で、日本が世界をリードしていく必要があると」するモノの面のみの強調に対応する地位であって、IT(情報技術)の創造的活用面は排除されている。当然のことだが、創造的活用面への意識・視線を欠いていることからのモノの面のみの突出現象であろう。
問題は「どこでもインターネットに接続できる」ことが重要ではなく、「接続」してどういった情報を選び、それをどう生活面に応用するか、あるいは社会的な活動に振り向けるか、情報の選別と活用の創造性こそが重要なのであって、ところが携帯電話やその他の携帯端末を持ちさえすれば到達できる〝接続性〟を優先し、より重要と考えているのである。その浅はかさに気づかずに、「ブロードバンド(高速・大容量通信)や第3世代携帯電話などITの先端分野で、日本がすでに世界のトップ水準に達している」とモノの面のみの優秀さを誇って自己充足している。
「どこでもインターネットに接続できる」ことが重要ではないとなれば、当然、「米国が先導してきたパソコン中心の情報技術(IT)の拡大は『限界を露呈している』」といった認識は必ずしも正当とは言えなくなる。パソコンが戸外でのインターネット接続に関して携帯端末に劣るとしても、そのことが対応的に情報の創造的活用面で劣る証明とはならないからだ。例え「主要国の携帯電話のインターネット対応率」では、日本が79.2%のトップに着けていて、アメリカがたったの8.9%で9カ国中の最下位だとしても、単にインターネット接続に携帯電話を使うか使わないかの違いを示す数値でしかない。
客観的判断を働かせもせずに、あるいは働かすこともできずに機械的技術だけを誇って、的外れに自国は優れているとする。この自己充足は日本人は優秀であるとする意識(日本民族優越意識)に目を曇らせた過信であろう。戦争に勝利もしていないのに勝利したと虚偽の戦勝を〝大本営発表〟として流布させながら、なお日本の勝利を勇ましく言い立てていた虚勢と重なる客観的判断能力の欠落を示していないだろうか。