〝日系〟から見る日本民族優越性
日本に来たブラジル人が犯罪を犯しても、日ブラジル間に「犯罪人引き渡し条約」が締結されていないことを利用してブラジルに逃げ帰り、向こうで制裁を受けることなく一般市民として暮らしている。日本の犯罪被害者遺族が中心となって、ブラジルと条約を結ぶんで加害者の引き渡しができるよう国に求める署名運動を起こし、8万人の署名を集めたとの記事が06年月6月20日の『朝日』夕刊に載っている。
署名を集めて求められる前に国の方から動くべき問題だが、国の国民に向ける神経はその程度のものなのだろう。
記事は「キーワード」として『犯罪人引き渡し条約』なるものを解説している。
(全文)「国家間の逃亡犯罪容疑者の引き渡し手続きを定める条約。日本が締結しているのは米韓だけ。ブラジルは憲法で麻薬犯罪の容疑者を除き、自国民を引き渡さないと規定。条約を締結しても実効性は低いと見られているが、引き渡し拒否の場合は条約により国内法に照らして捜査義務の生じる規定を盛り込める。警察庁によると、05年末時点で国外逃亡しているブラジル人容疑者は86人」
86人もいながら放置してきた日本の治安対策、と言うよりも〝治安〟とは精神の安寧を図る福祉要素をも含むものだから、国民一人一人に目を向けない日本的ともいえる国家優先政治と言うべきで、このことは長年放置してきた北朝鮮拉致政策にも言える。
「犯罪人引き渡し条約」が締結されていない関係を埋め合わせて、相手国中国が日本側と情報交換しあって逃亡帰国犯人を逮捕、裁判にかけて判決を言い渡した例として、記憶に新しいと思うが、03年6月の滞日中国人による福岡博多の強盗目的の一家4人殺人事件がある。
殺害現場は自宅だが、たった3万7千円を奪っただけで、41歳と40歳の夫婦に小学校6年11歳の男児、小学校3年8歳の女児の一家4人をヒモで首を絞め、男性には手錠をかけて、4人共鉄製ブロックのオモリを付けて博多港に沈めたが、「人の足らしいものが浮いている」との110通報で発見されるに至った酷い事件である。
日本で逮捕された元専門学校生の25歳中国人は死刑、中国に帰国逃亡した元私立大生中国人(25)も死刑、同じく帰国逃亡の元日本語学校生共犯中国人(23)は無期懲役の判決を受けている。
日系外国人、特に日系ブラジル人移住者の増加は、従来は日系1・2世に対してのみ与えられていた入国資格が1990年の入管法改正で日系3世までが(未成年・未婚・被扶養者については4世までが)〝定住者〟という在留資格を与えられることとなり、就労に関しても制限がなくなって、それ以来母国がインフレの高騰で生活苦を強いられていた日系ブラジル人がバブルが弾けて人件費抑制に迫られた日本企業のニーズに応える形で日本に出稼ぎ目的で殺到したのが端緒で、年々増え、現在約30万人の日系ブラジル人が滞在するという。
いわば入管法改正で〝日系〟だけに〝定住者〟という在留資格を認めたことを一つの大きな要因として、ブラジル在住の日系人が子孫を含めて現在約130万人という、他国への移民数と桁違いに多いブラジルに移民した日本人の数合計約30万人を反映した、その裏返しとしての日系ブラジル人の日本移住の増加でもあろう。
ではなぜ〝日系〟だけが「定住者」という在留資格を与えられたのだろか。〝日系〟ではなく、なぜ等しく世界の国々からの「定住」を認めなかったのだろう。
断っておくが、「定住」とは在留期間が制限されることがない「永住」とは異なる。あくまでも一時的滞在で、〝日系〟の場合は3年以内と規定されている。韓国・朝鮮・中国等のいわゆる在日でさえも、その約9割が「特別永住者」としての資格を与えられて日本に暮らしているのであって、日本人とは厳密に区別されている。
明治から戦前にかけて北米へは54万人、中南米へは24万人強、戦後(1952=S27年~1973=S48年)は北米へ22万人、中南米へは6万人強も日本人を移民として送り出し、さらに日韓併合後の韓国、あるいは満州国へ多くの日本人を殖民させながら、移民・殖民した日本人が韓国・中国では韓国人・中国人の土地を奪う支配者として君臨したのだが、一般的には日本人だけで生きてきたわけではなく、移住国の国民との相互関係の中で生き、生活してきたはずである。受入れる場合はその相互関係を排除しての〝日系〟限定となっている。
1990年の入管法改正で〝日系〟に関しては〝定住者〟としての在留資格を認めながら、遡る1981年に難民の地位に関する条約(難民条約)に加入し(翌1982年から発効)、難民認定制度(難民認定法)を設けたが、難民認定申請者数に対する認定数の少なさは世界的な悪評を受けていて、外国人受入れでの〝日系〟肯定とは異なる難民忌避の違いは何を意味するのだろうか。
平成17年度を見てみると、難民認定申請者数384人に対して難民認定者数は前年比31人増(約3倍)とは言うものの、認定率約12%の46人でしかないが、法務省入国管理局は「難民と認定しなかったものの,人道的な理由等から特に在留を認めた者は97人で,難民として認定した者を合わせた数(庇護数)は143人となる。これは,昭和57年以降最高の数である」と胸を張った言い方で公表しているが、それでも世界第2位の経済大国でありながら、欧米先進国と比較した難民申請者数の極端な低さが難民条約締結以前から難民のみならず、日系人を除く外国人の日本移住に厳しく門戸を閉ざしてきた外国人受入れに関わる閉鎖的な日本の歴史・文化・伝統意識を計算に入れた難民側からの忌避意識の表れとして出た数値であることは誰が見ても明らかである。
いわば外国人受入れ意識が難民認定者数及び難民認定率に直接的に反映するのは当然の傾向ではあるが、受入れ意識自体が難民側に影響して、申請者数を左右する相関関係にあることは否定できまい。
外国人から見た場合、日系人以外の外国人は難民としてであっても、移住という方法であっても、最近は改善されたと言うものの帰化という方法であっても、外国企業の日本市場参入と同じく、日本は入国困難な国となっているから、結果的に希望する者が少なくなるということであろう。
まず第一番に、難民条約自体が難民申請の期限を設けていないのに反して、日本は出入国管理及び難民認定法(入管法)で申請期限を「入国後60日以内」と定めていること自体が、難民入国への明らかな制限であると同時に忌避反応を示すものだろう。
日本の難民政策の状況を示唆する2002年11月17日の『朝日』朝刊に次のような記事がある
『日本の入管政策 難民より芸能人を優先?』
「『日本が認定した難民の数は条約加入以来20年で300人以下。対照的にいわゆるエンターテイナーを毎年10万人近く合法的に受入れている。エンターテイメントの方が難民への思いやりよりはるかに優先させているのでしょうか』
緒方貞子、痛烈に批判
緒方貞子・前国連難民高等弁務官は16日、東京で開かれた日弁連主催の難民認定制度改正をテーマにしたシンポジウムにメッセージを寄せた。ダンサーなどの芸能活動では大量に受入れている外国人を例に、日本の入管政策を痛烈に皮肉った。シンポに出席した多くの論者も、年間数千人から数万人規模で難民を受入れている欧米諸国と比較して、日本の受入れ数の極端な低さを厳しく批判。会場で読み上げられたメッセージで緒方さんは『日本が単一民族』との言説について、『人・モノ・情報が広く行き交う今日の世界で到底維持できない錯覚』だとし、『外国人に対する偏見や差別を打ち捨てる必要』を強調した。
また政府内に根強くある『難民申請者が虚偽の申立てで制度を乱用する』との懸念に対しても、『入国審査官が人道的精神より管理思考を優先させる対応』こそ、『制度の乱用になる』と反論した」
緒方貞子氏が指摘しているように、難民忌避は日本単一民族意識に深く関わっていることは間違いない。難民忌避に対して逆説的な関係にある〝日系〟限定は政府関係者は誰もが否定するだろうが、日本人の血が少しでも流れていることを根拠として「日本単一民族」をギリギリ守る止むを得ない最大限の妥協であり、最大限の譲歩なのである。
2001年6月20日の『朝日』夕刊からの引用で、少々古い情報だが、「検証 きょう『難民の日』日本の現状」から99年の法務省入国管理局統計資料で「主な国の難民認定申請者数と認定数」の主なところを拾ってみると、
認定申請数 認定数 認定率
米 国 31700人 13200人 41%
カナダ 30010人 13000人 43%
ドイツ 95100人 10300人 10%
英 国 71100人 7100人 9・9%
豪 州 9500人 1900人 20%
日 本 260人 13人 5%
最近5年間の日本のみの統計を見てみると、
年度/申請者数/認定者/不認定者/取下げ/人道配慮
2000年 216 22 138 25 36
2001年 353 26 316 28 67
2002年 250 14 211 39 40
2003年 336 10 298 23 16
2004年 426 15 294 41 9
2005年 384 46 249 32 97
平成17年度の認定率が12%に当たる前年比31人増(約3倍)の難民認定者数に至ったと、他国と比較しない数字マジックを行って、日本人がやりそうなことだと言えばそれまでではあるが、さも大幅に受入れたような印象を与えているにも関わらず、経済大国でありながら難民認定申請者数が384人という少なさ自体が〝日系〟の流入人口からも見ても、難民のみならず、〝日系〟以外の外国人全般に対する日本の受入れ意識を如実に物語っている。
「欧米諸国と比較して、日本の受入れ数の極端な低さ」という一般化した悪評・認識が外圧となって仕向けさせられた「前年比31人増(約3倍)」であり、それがなかったら、いつまでも現状維持という姿勢を基本的には取り続けることになっただろうことはこれまでの護送船団方式の国内産業保護や外国企業参入規制政策から見ても判断できる。
また、難民忌避を基本的姿勢としていることは入国管理局の不法滞在収容外国人に向ける威圧的・暴力的態度の恒常性からも窺うことができる。入国管理局職員は防波堤意識を持って対処しているのだろう。
難民を含めた〝日系〟以外の外国人の日本移住忌避と〝日系〟限定の定住政策が日本単一民族維持に深く関わっていることが新聞記事(「移民送り出して120年で幕 日系子孫逆流、新たな貧困 国の冷淡ぶりに批判」/2002.12.12.『朝日』朝刊)の中に見ることができる。
(一部抜粋)「先月7日、静岡県浜松市など14市町でつくる『外国人集住都市会議』が都内で開かれ、法務省、外務省など関係省庁と市町村長が初めて意見交換の機会を持った。同会議が昨年、国に求めた日本語教育への補助や医療保険制度見直しが改めて話題になったが、前向きな回答はなかった。
こんなやり取りがあった。
長谷川洋・群馬県大泉町長 自治体の事務負担軽減のため
、外国人登録事務を改善して
ほしい。
法務省入国管理局 住民基本台帳のように簡単な制度にし
ていいのか。隣にわけの分からない外
国人が住んでいたら、どう思いますか
。
たまりかねたように静岡県磐田市の鈴木望市長が発言した。
『マイナス面ばかり強調されたが、ブラジル人がいるからこそ、工場をたたまずに済んだという声もある。私の町に外国人がいることはプラスであるし、プラスにしていかなければいけない。そのためにも教育や医療の問題が現実に大きな障害となっている』
『こんなことなら来年は来ない』と憤慨して会場を後にした群馬県太田市の清水聖義市長はこう言い残した。『省庁はどこも「自分たちの所管ではない」といって責任を持たない。そのはざまに置かれているのが、今の日系人だ』」
「隣にわけの分からない外国人が住んでいたら、どう思いますか」――
確かに悪質な犯罪を犯す外国人は存在する。しかし法務省入国管理局の言葉は日本人が誰一人として悪質な犯罪を犯さない人種であることによって初めて妥当性を獲得し得る言葉である。
現実には「隣にわけの分からない」日本人が住んでいて、悪質な犯罪を犯すことも多々あり、「わけの分か」る日本人が住んでいても、その日本人がある日突然犯罪者の姿を取ることもある。顔見知りの近所の中年が幼い女児をいたずらして殺してしまう事件も起きているし、日常的に顔を会わせている塾の教師がある日突然殺人者と化して生徒を殺してしまう事件もあった。
いわば相互性としてある正体不明性であり、犯罪性であって、それをさも外国人のみの問題であるかのように言う。あるいは日本人の血を持っているからと日本人の血を頼みとして〝日系〟限定で定住を許可しながら、「隣にわけの分からない外国人」として忌避する。これは明らかに純粋日本人のみの日本民族絶対性(=日本民族優越意識)に立った差別であり、〝日系〟限定が止むを得ない最大限の妥協であり、譲歩であることの別方面からの証明ともなる「隣にわけの分からない」発言であろう。
人間は日系だろうと非日系だろうと、あるいは日本人そのものだろうと本質的な違いはない。誰だって犯罪は犯す。だが、意識としてはそのよう〝相対化〟ができず、自民族に対する優越意識から(この意識自体が〝相対化〟観念を持たない非客観的認識以外の何ものでもないのだが)日本人の血に対する根拠のない無条件の信頼・絶対性に囚われて(「日本人性善説」に最も象徴的に表れている)、そこから逃れられないでいる。その反映としての難民認定の少なさであり、〝日系〟限定の定住権付与であろう。
難民を含めた外国人忌避が単一民族意識からの〝日系〟限定へと向かわせ、単一民族意識からの〝日系〟限定が難民を含めた外国人忌避を合目的化している。
日系ブラジル人が犯罪を犯したとしても、被害者やその遺族の日本人からしたら加害者はあくまでもブラジル人であり、その逮捕請求は当然の権利・感情としてあるものだが、厳密に言うと日本人も犯す相互性としてある犯罪であって、日本人の未逮捕加害者を抱えている日本人被害者及びその遺族が多く存在するのも事実である。犯人が日系ブラジル人と特定されながら、母国ブラジルに逃げ帰って逮捕を免れているケースにしても、犯人が日本人の誰それと特定されながら、警察が逮捕できずに時効を迎えることによって、結果として逮捕を免れるケースに相互対応する出来事であろう。
日本人の犯罪にしても日系ブラジル人の犯罪にしても、人種・民族を超えて誰もが同じように持っている犯罪性からの一つの姿であって、日本人の血を持っているからと日本人の血を頼みとして〝日系〟限定で定住を許可した政策意識にしても、その受入れ意識とは正反対の状況にある難民忌避意識、さらに日本人優越意識を根拠とした日本人絶対性と絶対性への拘りからの単一民族意識が、緒方貞子氏の「人・モノ・情報が広く行き交う今日の世界で到底維持できない錯覚」という言葉を待つまでもなく愚かしい認識・固定観念で成り立っているに過ぎないことを自覚しなければならない。
政治家・官僚が自らの姿をほんの少し顧みるだけで理解できることだが、それができない日本人の〝相対化〟意識、貧困な客観的認識性は如何ともし難いものがある。尤も〝相対化〟意識の欠如・客観的認識性の欠如なくして単一民族意識や日本民族優越意識は成り立たないのだから、日本の歴史・伝統・文化としてある〝相対化〟意識の欠如・客観的認識性の欠如、バンザイと言うべきか。
確かに日ブラジル間の「犯罪人引き渡し条約」の締結は必要であろう。締結できなくても、ブラジル国内法で罰する方向へと道をつけなければならない。犯罪は加害者を罰することでしか被害者及びその関係者の感情の公平性、あるいは感情の収支に辻褄を与えることができない。但し加害者は日系ブラジル人やその他の〝日系〟、あるいは在日中国人や韓国人といった外国人に限るわけではなく、等しく日本人もなることであって、当然人種や民族の違いに関係なしに等しく必罰化すべきであり、そういった犯罪の人種的全般性とその対処としての公平な必罰化から導き出される答は犯罪を基準に人種や民族の優劣を量ることは不可能で、そこにあるのは所属国籍の違いしかないという認識でなければならない。
当然、石原東京都知事の「中国人など外国人は、日本人と違う民族的DNAを持ち、日本人では考えられない残虐な犯罪を犯している」といった発言は日本民族優越意識に冒された根拠のない愚かしい偏見に過ぎないことが分かる。
日本で犯罪を犯して、日本の警察の手が及ばない母国に逃げ帰って刑罰から逃れる〝日系〟の続出は、日本が単一民族意識から外国人受入れに〝日系〟に拘った愚かしさへの因果応報に思えて仕方がない。
尤も政策的因果応報の直接的被害者は犯罪被害者とその家族であって、国は痛くも痒くもない場所に涼しい顔をして立っているに過ぎない。だから率先して動くといったことをせずに済ませるのだろ。