川崎市で、スクールバスの子どもが襲われるという事件が起きた。
弱いものを狙って襲う、という卑劣さ。
小さい子どもや優しい大人が命を落としたり、怪我をしたりしたとは、悲しくて言葉もない。
朝、登校の見守りを近所の集合場所でしているのだが、以前やっていたが今はやめている人が「やはり心配になって」とまた始められた。
自分のようなおばさんが、黄色いベストを着て一緒にいるだけで、抑止効果などあるだろうか、と無力感に襲われる。でもいないよりはいいか、と思い直したりもする。
大人たちは、君たち子どもことを、必死で守ろうと思ってるよ。
「君たちのことは私たちが守るから、安心して大きくなりなさい」と子どもたちに伝えたい。
一方で仕事柄、犯人のこれまで生きてきた様子も、とても気になっている。
今、私の目の前で、生き辛さを抱えている子どもの姿。
この子たちが大人になるまでに、やってやれる事はあるか。
完璧でなくても、何とか少しでも身につけてほしいものは何か。
人と多少違ってもいいのだ。
「とんがっているもの」を「味わい」に変えていくにはどうしたらよいのだろう。
かわいそうがる。
批判する。
それだけではいけない。
もっと考えよう。行動しよう。
「交通安全」の旗の持ち手をせめて三又にして、なんて、今朝話していたのですが。
心の問題はまだまだ難しいです。
しかし学校では、心を自分で扱うのが難しい子どものために、そのスキルを身につけるオーダーメイドの勉強が始まっています。公立学校でのことです。私たちの分野ではそんな事が始まっているのです。
立ち番監視をしていようが、
意を決した者に対しては無力だと思います。
事件が起きる→セキュリティを強化する、
という対処療法は必要かもしれませんが、
本当に必要なのは”なぜ事件が起きたのか?”
そこにメスを入れる事でしょうね、
エラそうな事を言いますが、
なぜなぜ解析みたいなアプローチで真因に迫り、
そこに対策や改善を施さなければ、
悲しい事件は止まないと感じています。