連合艦隊司令長官を失って日本海軍を震撼させた二つの事件がある。
一つは山本五十六元帥の戦死で海軍甲事件と呼ばれ、二つ目は古賀峯一海軍大将(元帥)搭乗機が行方不明となったもので海軍乙事件と呼ばれる。甲事件は広く知られていると思うが、あまり取り上げられない乙事件の方が日本海軍が被った傷は大きいとされている。
乙事件のあらましは、1944(昭和19)年3月31日、連合艦隊司令部移転のために司令部要員が分乗していた2機の二式大型飛行艇(二式大艇)が撃墜され、1番機座乗の司令長官は行方不明、参謀長福留繁中将座乗の2番機はセブ島沖に不時着し、参謀長以下9名がフィリピンゲリラの捕虜となった。古賀長官が企図した「艦隊司令部は陸上で指揮を執り、必要に応じて適宜な海上部隊に乗組む」という構想は、現在では効果的な運用法とされて列国が導入している司令部構想の先鞭に位置するものであったが、指揮官先頭に拘る大臣・軍令部からは安全な場所への逃避と看做されて古賀大将は元帥を遺贈されたものの戦死ではなく殉職とされた。
連衡艦隊司令長官の戦死も重大事であるが、真に重大であったのは福留中将機に搭載されていた日本海軍の最重要軍事機密文書がゲリラを通じてアメリカ軍に渡ったことである。機密文書は1944(昭和19)年3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書とされており、これらの文書はアメリカ本土で翻訳・活用されて、以後の海軍作戦(「あ号作戦」、「捷一号作戦」など)失敗の一因ともされている。しかしながら、機密文書を奪われたことを軍令部等は過少に評価して、解放された福留参謀長は責任を問われることもなく以後も要職を歴任していることや、新Z号作戦計画書の部隊運用構想を修正することなく使用し続けたことは、日本海軍の秘密保全や防諜に対する認識の甘さを示しているように思われる。
在外公館や司令部が危殆に瀕した場合に秘密文書等を焼却・破棄・破却することは常識であることを考えれば、秘密文書の破棄を逡巡して持ち続けた連合艦隊司令部員の失態は明らかであり、かつフィリピンにおけるゲリラの脅威を深刻に捉えていなかった司令部の防諜意識の欠如は指摘されるところかと思われる。
自衛艦でも沈没等の危機が迫った場合には、乗員を退艦させる「総員離艦」の手続きが定められており、その際には秘密文書が敵方の手に渡らない方策が採られている。このことに対しては、常識的な秘密保全の意味以上に、海軍乙事件の教訓も一部投影されているように思っている。
おりしも、神奈川県の情報調査会社経営者が、10数年間に亘って在日ロシア大使館員に軍事情報を渡していたことが明るみに出された。現在は海軍乙事件当時に比べて、防諜のためのハードウェアは格段に進歩していると思えるが、防諜・秘密保全に従事する人の保全意識は相変わらずであるように感じられる。
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海上自衛隊では艦長の免職や教官がイージスの教育資料をUSBにDLした件が、民間企業でもソフトバンク社員が基地局設置に関する社外秘を懐に楽天に転職したことがあるように、一般的に守秘の意識が希薄であると憂いています。安保はもとより、国是として技術立国を目指すためにも守秘・防諜は徹底されるべきと考えます。