東京都市大学の大野和男教授が、覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。
不思議に思うのは、同教授が昨年4月の着任直後にも覚醒剤所持で実刑判決を受け、執行猶予中の再犯と報じられていることである。記事では、昨年の事件後に教授が容疑者は大学側に一切報告していなかったため大学側も事実を知ることができず講義やゼミを続けさせていたとされている。今回は警視庁から逮捕の連絡があり、本人からも昨年の事件で執行猶予中だったことが明かされた。大学は、「昨年4月に(犯罪と有罪が)判明していれば懲戒解雇などの処分は免れなかった」としているが、昨年も今回と同様の身元照会等の連絡はあったであろうことから、どこかで見過されたものであろう。大学教授といえば、学識は豊かで、教育者に相応しい高潔な人格の持ち主と思っていたが、現実は一般社会と同様の玉石混交の世界であるらしく、本来なら薬物に手を染めた、逮捕された、実刑判決受けた、どこかの時点で自発的に身を引かなければならないことと思う。さらには、メディアの扱いにも疑問を持たざるを得ない。ピエール滝氏の薬物犯罪では、新聞は2~3段抜きの大見出しで、ワイドショーは連日・連夜にわたり報道したが、大野教授の犯罪については、新聞は読み飛ばされる程度のベタ記事、テレビでは見ることもなっかった。知名度においてピエール滝氏は大野教授とは比べられないものであると思うが、職業に求められる倫理観において教授は、俳優・ミュージシャとは比較できない高みにあると思う。芸術家・芸能人・スポーツ選手等の特異な分野に生きる人間が、自分の能力を極限まで高め、時には能力以上の感性を作品や記録に投影させようとして薬物の誘惑に負けることはまだ理解できるが、学究者や教育者が薬物の誘惑に負けることはあってはならないことで、社会的責任と影響は後者の方が遥かに大きいと思う。
例によって都市大は「事実関係が明らかになった場合、厳正に対処する」と紋切型コメントを出しているが、知識階級の堕落が国威を損う端緒となる例は歴史上にも数多く存在する。正邪はともかく、知識・学説の相克・論争が科学の発展には不可欠であると考えるが、それは正常な判断力のもとに行われるべきで、薬物の助けを借りたり、権力を借りる魔女狩り・異端裁判であってはならない。教授の例を見る限り、刑法犯になった時点、刑法犯の疑いをかけられた時点で、大学を追われて当然と思うが。推定無罪の原則を守る本ブログであるが、教育者については埒外と考えるところである。