福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

美しいニッポンのあいまいな私:村上春樹の『夢見る文学的反原発』が押し殺すもの・・・

2011-09-01 22:47:33 | 新聞
3.11の原発事故以来、ごうごうとまき起こるふつうの人々の声をしり目に、インテリたちの口は重い(もちろん、カタストロフビジネス仕様で声を大にするおなじみの軽薄先生方は除く)。世界の秘密はわが思考によって照らし出される、なんて調子の、事故前の彼らの誇りはどこに行ったのだ。無知な大衆と同じように、「放射能怖い、ホアンインゼンインアホ」みたいなテーゾクなエクリチュールを人の尻馬に乗って再生産するなんてうすみっともないと思っているのか?いずれにしても、この先生方にとっては、原発なんか許すな、放射能なんて絶対ゴメンだ、と「単純に」即・脱原発を求める私たちよりも、「人生がほんのちょっと複雑」(『紅の豚』のジーナ)らしい。そんなわけで、村上春樹氏はスペインで賞をもらい、そのお礼のスピーチで彼なりの反原発を主張するのだが、これを読むと、度数の合わない眼鏡をかけた時のような気持ちの悪い現実のゆがみが浸透してくるような、不気味な感じにおそわれる・・・

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村上(以下敬称略、一応「文芸批評」ですもん、ウフフ・・・)は、東電福一原発の事故の原因を、安全よりも利益優先という東電と、『原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた』政府のずさんな管理に帰している。こんなことをされて、

『我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。』

そう、当然だ。そして、それはもう現実となっている。いくらがまん強く、感情表出が苦手であっても、『今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立て』ざるをえないのだ。ところがこう言っておいて、村上のトーンは、その後なぜか反転する。怒りは「自責」に変換される。

『しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。』

私たちが『我々自身をも糾弾しなければならない』のはどうしてか。私たちは、先の戦争の時、広島・長崎への原爆投下・被爆の経験をし、その後もずっと、原爆被爆者の悲惨を目撃する共通の体験を持ってきた。すなわち、原爆被爆体験をとおして、

『核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。』

ところが、私たちは、この『核に対する拒否感』を、経済成長の論理、『効率』に目がくらんで喪失してしまう。村上は、これを大変な誤りとみなす。

『核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?理由は簡単です。「効率」です。』
『我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。・・・原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。』

大切な『核アレルギー』を売り渡すような、恥ずかしいことになってしまったのはどうしてだろう。それは、電力会社・政府一体となった『効率』『安全』プロパガンダのせいだ。そして、やがて原発は発電実績とともに既成事実化し、原発への疑問は、電力不足の脅しでかき消された。

 『原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張し・・・日本政府は、・・・原子力発電を国策として推し進めるようになり・・・電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付け・・・もうあと戻りはできません。既成事実がつくられ・・・原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅し・・・「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。』

国策にのらないものを『「非現実的な夢想家」というレッテル』を貼って『脅し』、それに現実容認派が加担するといういじめ社会の構造が、ニッポン文学が世界に誇るMujoに負けず劣らず、『日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました』ということもバルセロナのみなさんにお伝えしてほしいものだが、それはさておき、村上は、原発の効率=彼らの『利益があがるシステム』が、いつの間にか「彼らのためのシステム」から「みんなのためのシステム」にすり替えらえてしまったことを強調する。

『原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。』

私たちは、原子力マフィアの金と権力にあかしたプロパガンダにまんまと引っかかり、いいようにだまされて、原爆被爆の経験も忘れて、彼らの『効率』『便宜』に喜々として加担してしまった。これを私たちは、しんそこ反省しなくてはいけない。そういう意味でなら、村上が以下のように言うことには根拠がある。

『そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。』

だまされたおれたちのアホさかげんは、本当に悔しい。福島がこんなことになる前に、おれたちが今しているように、原発を止めるように必死に何かしようとしていたら、今日の福島の過酷な状況を少しでも避けることができたかもしれないのに、と3・11以来『自らをも告発し』ている人は、今、数限りなくいる。その後悔と反省、『敗北』の確認を支えにして、彼らのくりだす技術的に洗練されたまやかしを突きぬけて、もっともっと東電や政府や原子力マフィアを非難し、監視し、追いつめなくてはいけないのではないか。

ところが、村上はそうは言わない。村上は、『非難』に代表される闘争と政治性と現実行動の世界を、内攻と自省と罪障付与の個人の夢の宇宙に転換する。こんなところに村上春樹の文学的表象の秘密があるのか?。上の引用にひきつづいて、村上はこう言う、

『我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。』

私たちは、どうみても政官産学報の一体化した原発マフィア利権屋集団のようには『加害者』ではない。しかし、村上はここで奇妙なスイッチ・レトリックを発動する。だまされ、すり替えをゆるしてしまったあやまりを私たちが反省・後悔するという意味で『自らを告発する』ことを、村上は、自分が彼らと同じような『加害者』であるとして『自らを告発する』私たちの自己罪悪化にすり替えてしまうのである。

こうした倒錯した大転換を、それ本来のグロテスクな姿に見せないために、村上は哲学的・文学的伏線を用意している。

『核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。』

これは世界の構造的な条件の前で、そこに組み込まれた私たちすべてが必ずになう「存在論的二重性」とでもいうべきもので、そんなスノッブな命名に反してその使用法は大体の場合、卑俗な政治性にまみれている。こういう罪悪感植えつけ戦略は、権力行使者には都合がよく、それに取り入ろうと思っている権力行使者見習いが、殊勝ないい子づらをして一億総ざんげを迫るときに使う論法だ。たとえば、毎日新聞の『ゆうだい君』もきちんとこの存在論的二重性をおさえながら、愚かな大人たちを純真な子供の目で『告発』しているではないか。

村上が一億総ざんげ路線にのり、「あちら」と「こちら」、「加害者」と「被害者」の境界を曖昧化しようとしているのは明らかだ。村上の美しい文学的演説は、わがニッポンの農村共同体における春の日の『大がかりな集合作業』を喚起する。私たちが『損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき』、私たち全員が加害者であるということが前提になる。だから、その仕事は、被ばくを強制される私たちと、それを強制する原子力マフィアの区別なく、

『それは我々全員の仕事になります。・・・それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。』

ニッポン人は『心をひとつにして』、みんなで被ばくし、みんなで汚染食品を食べ、それの原因を作った原子力マフィアの責任を問うことはよそう、なぜなら、かれらにだまされて、彼らの『効率』を自らの『効率』とした私たちみんなに、ひとしく『加害者』としての責任があるのだから・・・。

村上はこうして、一方で原子力マフィアを激しく告発しているかのように見せながら、実は、告発=責任追及の構造を解体している。核の悲惨の教訓を忘れ、奴らの『効率』に魂を抜かれるまでに私たちがだまされてしまったのなら、だまされた状態から脱して、だまされていたことを後悔しながら、これ以上だまされないために、だました奴らをとことん解体しなくてはならないはずだ。私たちの、『自らを告発する』反省や後悔は、だから、だまされた私たちの知力と根性と、そして「動物的な勘」(五木寛之氏)をきたえなおすのと並行し、そういう努力を動機づけるはずだ。なぜきたえなおさなければならないか。もちろん、二度とだまされないため、奴らの瞞着体制の再生を許さないため、奴らの手口の首根っこをおさえるためだ。また、政治家・官僚・経営者をはじめとして、御用学者や翼賛ジャーナリストたちの一人一人の顔や言動をしつこく記録し、追及し、記憶して、奴らの同類が装いを変じて再登場した時に、そのバケの皮をはぎ、原発利権野郎の素性をいちいちあばくためだ。

原発事故が私たちに突きつけているのは、個人の『損なわれた倫理や規範の再生』であると同時に、社会的・政治的な闘争だ。しかし、村上春樹のことばには、現実との戦いが欠けている。「誰にも見えない、においもない」放射線の脅威におびえる福島の人々はじめとする私たちの日々の生活のリアリティーが欠けている。村上は原発事故を社会的・政治的な戦い・闘争から文学的なセーシンの話にかすめ取り『損なわれた倫理や規範の再生』を福島の現状とはからまない『非現実的な夢想』に基づくことばのしごと、『言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分』に還元しようとしている。『夢を見ることは小説家の仕事です』と村上は言う、それはけっこう、でも、夢を見る構想の仕事といっしょに、現実に切りこむ仕事も同時にしてもいいはずだし、ことばを通して行われる社会的・政治的な戦いにおいても、『我々職業作家』が大いに活躍する余地があるのではないか。

村上の言説は、「紅旗征戎はわがことにあらず」と言いつつ隠微な政治性を発揮して世の中と上手にやってゆく、古代から小林(まやかし)秀雄先生にいたる伝統、「無常」が売りのはかない日本文化の表象でメシを食う文学者先生方の処世術の伝統を思い起こさせる。また、神経症的な危機感にさいなまれる現実を、「自分も加害者だ」と心理化的に自閉してきりぬけ、外の世界と戦わないことで「そこそこ勝ち組」的なステータスのおこぼれを享受している世界のHaruki Murakamiの読者層の文学的感受性をくすぐるのかもしれない。 

いずれにしろ、村上春樹に原発危機と本気で戦う気があるとは思えない。だから、彼は、外国ではこんな話をしても、日本のメディアで同じことを言った、書いたりしない。村上が唯一、戦闘的なポーズをとるときも、気合よりも大げさなレトリックの空回りを感じさせるのはそのためだ。

『我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。』

『「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たち』っていったい誰だ?村上的二重性=二枚舌論理でいくと、そこには究極的には(そして場合によっては)『加害者』でもある私たち自身が含まれるのではないか?なぜ、「「効率」や「便宜」をまやかしに利用して自分たちの利権のために私たちに被ばくを強制する奴らの息の根を止めなくてはならない、こちらが放射線で息の根を止められてしまう前に」と、言わないのだ。『夢を見ることを恐れてはなりません』だって?そうではない。今、私たちは戦うことを恐れてはならないのだ。怒ること、抗議すること、非難すること、告発すること、詰問すること、叱責すること、怒鳴ること、泣き叫ぶこと、そして憎むことさえ、もう恐れてはならないのだ。

『今はもう、人を憎むのはみっともないとか言っている場合ではない。なりふりかまわぬ言動をする自分に赤面するようではだめだ。おれたちにこの害悪をもたらした奴らには、きっちり借りを返してやろう。あぶないところで、おれもやられてしまうところだったじゃないか。』
(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)


付記:

1.村上春樹は『我々は腹を立てなくてはならない』と言っているが、そんな言い方で、自分を鼓舞しなければならないなんて、ほんとはぜんぜん怒っていないのがよくわかる。腹が立ちっぱなしの私たちは、腹が立ちっぱなしの隣人にこんなふうには言いません。国会でほとんどブチ切れていた東大の児玉龍彦教授にも必要のない言い方です。友人の指摘です。

2.村上は、『効率』にへりくだってしまったのがいけないと言います。しかし、たとえば自然エネルギーの『効率よい』利用を考えるとか、効率や合理性は脱原発のためにも必要でしょう。『効率』が犯罪的なのは、その名目で、実は自分たちの利権を囲い込みながら守ってきたマフィアたちが、「彼らの効率」を「私たちの効率」にすり替えたからでしょう。それを、村上は、現実を分析するよりは、『非現実的な夢』からなる『非効率な世界』に立てこもろうとする。非合理で非現実的な夢となった村上の反原発は、現実とからまないことの言い訳を提供すると同時に、原発推進派から「現実的に」恐れられることのない、つまり、原発利権屋の現実主義に何の脅威もあたえない「くみしやすい反原発」となる。だから、はしたなくも『東電がんばれ!』と公言する毎日新聞のオバサン論説委員に『村上春樹さん、夢のない卑しい現実主義者でごめんなさい』などとおちょくられることになる。いや、村上にとっても、これは悪い話ではない。反原発でどんなに過激なことを言っても、しょせんは『夢』ですよ、という言い訳をきかせれば、山本太郎氏のように仕事を失うことも、高橋源一郎氏のように苦労して書いた原稿を掲載拒否されることもないからだ。

3. 村上春樹は『私たちはみな被害者であると同時に加害者である』と言う。ところでこの二重性を、天使のようにまぬかれている純粋な存在がある。それがHIROSHIMA®&NAGASAKI®の原爆被爆者だ。そして、この一切の加害者性をまぬかれた絶対的な被害者の天上の声を代弁する特権を持つのが『職業作家』なのだ。大江健三郎の後を、村上春樹が追う。つまり、これも、Mujoと並んで、ノーベル賞選考でものをいうジャパネスクなのだろう。

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