福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

広島・長崎「平和宣言」もやっぱり「やらせ」:原発延命市長の画策「原発に反対しない真のヒバク者」

2011-08-05 12:13:36 | 新聞
8月6日・9日の「原爆の日」のゴーンが鳴る前にぜひお読みください。
東電・福一原発で、「直ちに健康に影響が出る」どころかほとんど「直ちに死亡する」レベルの新たな激烈放射線スッポットがつぎつぎみつかり、放射能汚染が「収束」どころかこれらかもまだまだ深刻な時、福島の人たちがいぜんきびしい放射線被ばくに閉じ込められ、恐れと不安の日々と送っているとき、その現実をもっとも身近に感じ、理解し、住民の保護と原発の廃棄に向けて先頭になって行動し発言してくれるのは、何十年もの間、放射能の害毒に苦しみ、それと闘ってきたヒロシマ・ナガサキの原爆被爆者の方たちではないのか。ところがそうではないらしい。今年もその「世界一」(山下俊一福島県立医大副学長)の記念日が近づき、恒例の平和宣言(原発事故があっても日本は平和じゃけん!)の報道を読むと、「原発」と「原爆」は別、「原発」は「原爆」の足元にも及ばない、ということらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
広島では、原発事故は遠い福島の他人事らしい。
『宣言文では、同事故について「原子力発電に対する国民の信頼を根底から覆した」と指摘。「脱原発を主張する人々」や「原子力管理の一層の厳格化とともに再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいる」と現状をとらえ、・・・』産経

『「脱原発」には言及するが、宣言としては明確に主張しない』毎日

『人々がいる』って、そんな人々は広島にはいないのか、広島の被爆者は『脱原発』を主張しないのか?「しないのだ!」、と広島・松井市長様はおっしゃる。だからふだんは一地方都市の首長に過ぎないこの男が、年に一度だけ世界の注目を浴びることのできる政治的ヒノキ舞台で読み上げる『宣言』では、

『脱原発に踏み込まないとしてきた松井市長の意向』毎日

を文案選定委員会にも了承させた。というのも、この市長は、『会見で「原発は国のエネルギー政策の大きな柱」』毎日)と原発擁護宣言するような原発村のお友だちだからだ。

そしてこの原発擁護・脱原発反対市長が『「脱原発についても賛否両論あり、双方のニュアンスが伝わるように(宣言を)考えた」』読売

と言うとき、脱原発に否定的な方の意見の中心は自分で、自分が市長権限で広島のヒバク者と福島のヒバク者の分断を図ったのだと告白しているに等しい。すなわち、『松井市長は起草前から脱原発には踏み込まない意向を示しており』毎日)、この市長様のご『意向』に、被爆地の広島こそ、福島を無視してはいけない、福島を孤立させるな、と主張する他の委員を従わせたのだ。

何のために?もちろん、脱原発・反原発に、世界に冠たるわが広島のヒバク者オーソリティーのお墨付きのおこぼれを与えないためだ。そうやって、「国策」である原発推進に、広島はお邪魔しません、ただ単に、ただ単純に、ただひたすら、ただ儀礼的・儀式的に世界平和と核兵器廃絶のみだけを主張するいい子でいます、とわかってほしい人にわかってほしいからだ。

 長崎でも事情はかわらない。平和宣言文の起草委員会の初期の会合では、

『「核依存文化から抜け出し、原子力の平和利用も拒否する『ナガサキ・スタンダード』で世論をリードする必要がある」と提案』長崎新聞)、
『「科学技術は兵器と表裏一体。原発からの脱却こそ核兵器廃絶につながることを世界に先駆けて喚起すべきだ」との積極論』『「今、被爆地が率先して脱原発を打ち出さなければ信用されなくなる」と踏み込んだ表現』長崎新聞)、
『「いまだに福島や東北で放射線の危険にさらされている方々がいる。人々が無用の被曝(ひばく)にさらされないためには核兵器と原発をなくすことに尽きる」などの意見』朝日

というように、原爆被爆の経験から福島の現状に積極的にコミットし、脱原発に向けたイニシアチブを取ろうとする意見・提案が、ごく当然のことながら多くの委員から出されたが、けっきょく最終的には、『宣言に「脱原発」を盛り込むべきとの意見が委員から相次いだが、原案には採用されなかった。』共同

どうしてこういう当たり前の主張が通らないのだろうか。ここにも田上富久・長崎市長の会議工作と政治的まやかしがある。

『「脱原発」に踏み込むか。田上市長は「国民的な論議はこれからだ」として「議論の過程こそが(核問題への)無関心からの脱却につながる」と現時点では否定的な考え方を示した。・・・(脱原発に対する)「賛成・反対の二者択一は、結論が一人歩きして危険だ」など市長への同調意見が目立った。』毎日

『田上市長は、・・・原発の是非に直接触れる発言に関しては慎重な姿勢を示し・・・
「安全なエネルギーを模索すべきだが、それが産業や市民生活にどう影響を与えるのか、しっかり議論する」』
長崎新聞

などと言いつつ、『日本の電力供給の3割を超える原子力発電が市民生活や産業活動に及ぼす影響を踏まえ』(西日本新聞)て原発の延命を図る市長とその同調者が、

『「(原発は)マルかバツかで処理すべき問題ではないとの声もある」(広島市長)』産経

という下は自治会の会合から上は国会に至るまで、およそ政治的な場では必ず繰り返されるぼかし・ごまかし戦法で議論を誘導したのである。長崎のケースで注目されるのは、田上市長の「遠い将来」「そのうちには」というご機嫌取り的言い逃れ技法の応用である。

『「脱原発」との表現は直接使わないものの、原子力に代わる自然エネルギー開発の必要性を訴え、原発に依存しない方向性を明確に打ち出す内容で落ち着いた。』朝日

『方向性』なんて言葉を使うやつがいたら、あやしいと思え!朝日のような、パワー・エリートにあこがれ、ついそのまねをしてしまう新聞の、国家に依存する方向性がこの文体にある。

『田上市長は記者会見で「原発はゼロにすべきか」と問われ、「長い時間軸という意味で行きつくところはそうだ」と答えた。・・・「社会を壊さないように時間をかけて進んでいくことが大事だ」と強調した。』西日本新聞

『社会を壊さないように』つまり、原発を容認し、それに依存し続け、新たなカタストロフの可能性をじっとこらえつつ私たちが生きて行かなければならないのは、『長い時間軸』にそって延々と続いている。福島の子どもたち自身が、『「甲状腺がんかどうかって、わかるのにどれくらいかかるの?」』ル・モンド)と悲惨な自問をしているときでも、避難とか緊急の行動をとるのではなく、『時間をかけて進んでいくことが大事だ」と強調』するのは、福島を見捨てることに等しい。

福島の人々の過酷な被ばくの現状を認めることは、原発の悲劇を原爆の悲劇で裏打ちすることになり、原発の延命に決定的な打撃を与えるだろう。だから、『核兵器問題と原発を一緒に考えるのは難しく工夫が必要だ」』長崎新聞)。言うまでもなく、『工夫』とは、それとわからないようなごまかしのことだ。ここで、田上市長がとる戦略は、「原発と原爆は違うのだ」という堂々たる正面突破。その悪魔的な悪辣さは、同郷の山下俊一教授と共通している。

『「同じ放射線被害でも、原発事故と核兵器の攻撃は違うものだ」とも記載』共同

『市長は「原発事故で放射線問題に世界の関心が高まっている」として「それを人の上に落とす核兵器の非人道性を訴えたい」と述べ、委員から反対意見はなかった。』毎日

『核兵器の非人道性』という錦の御旗を振り回されてはだれも文句が言えない。それを利用して、田上は原爆によるホンモノのヒバク者と、原発による二流のヒバク者との間の区別をつくりだし、長崎の「原爆の権威」を守るとともに、福島の被ばくを、政府や原子力マフィアと同じように過小化して原発を守ることにも貢献している。むろん、広島での政治的かすめ取り工作でも、この「ピカの御旗」は存分に利用される。

『広島県の湯崎英彦知事は・・・「エネルギー問題と原爆投下は並列して比較すべきではない。関心が高いのはわかるが、同列に論じたくない」』読売

こうして、「原爆被爆者の、原爆被爆者による、原爆被爆者のための反核」運動は、原発問題と切り離され、その過程で、その「原爆至上主義」ゆえに福島の原発ヒバク者を切り捨てる。しかし、忘れないでおこう。これは、原発延命を図る政治家たちによる原爆被ばくの政治利用なのだ。ヒロシマ・ナガサキの被爆者は、いつの間にか、「原発ヒバク者を差別する原爆ヒバク者」となってしまった。これは、数を引用することさえはばかられる二つの原爆の犠牲者を冒涜し、今も被ばくの困難を背負い続けている、(「ホンモノの」では断じてなく)あたりまえの普通のヒバク者の方たちを、入り組んだ言説のトリックを使いながら侮辱することだ。

言うまでもない、ヒロシマ・ナガサキの被爆者の人たち自身が、「自分は福島の被ばく者とは違う」などと思うわけがない。

最新の画像もっと見る