ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「必殺シリーズ」のOP曲も

2017年07月24日 | 其の他

作曲家平尾昌晃氏が、21日に肺炎で亡くなっていた事が報じられた。享年79。去年だったか、「病気で緊急入院し、一時は危篤状態に陥った。」と報じられた事が在ったし、以降、げっそり痩せた姿を拝見していたので、「来る時が来たなあ。」という思いが在る。

 

世代的にロカビリー歌手だった頃の彼はリアル・タイムで見ていないが、弟子の畑中葉子さんとコンビを組んで歌った「カナダからの手紙」【動画】の頃は当然知っている。歌手として一世を風靡した彼は、「カナダからの手紙」を始めとする、多くの名曲を生み出した作曲家としても有名だった。作曲家として、彼が手掛けた名曲を列挙すると・・・。

 

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=作曲家として平尾昌晃氏が手掛けた主な作品=

 

・「星の子チョビン」【動画

・「必殺シリーズ」のOP曲【

・「草原の輝き」【動画

・「星に願いを」【動画

・「二人でお酒を」【動画

・「ふたりの日曜日」【動画

・「愛のメロディ」【

・「冬の花」【動画

・「花の涙」【

・「グッド・バイ・マイ・ラブ」【動画

・「よこはま・たそがれ」【動画

・「長崎から船に乗って」【動画

・「夜空」【動画

・「キラキラ星あげる」【動画

・「わたしの城下町」【動画

・「瀬戸の花嫁」【動画

・「銀河鉄道999」【動画

・「ミヨちゃん」【動画

・「うそ」【動画

・「理由」【動画

・「旅愁」【動画

・「ぼくの先生はフィーバー」【動画

・「霧の摩周湖」【動画

・「Eighteen」【動画

・「キャプテンハーロック」【動画

・「カリフォルニア・コネクション」【動画

・「やさしさ紙芝居」【動画

・「赤い絆 (レッド・センセーション)」【動画

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昭和のヒット曲”がズラッと並んでいる。「必殺シリーズ」のOP曲や「冬の花」、「花の涙」、「旅愁」は必殺シリーズで使われた名曲。

 

「二人でお酒を」や「グッド・バイ・マイ・ラブ」、「よこはま・たそがれ」、「長崎から船に乗って」、「夜空」、「わたしの城下町」、「瀬戸の花嫁」、「うそ」、「理由」、「霧の摩周湖」、「カリフォルニア・コネクション」、「赤い絆 (レッド・センセーション)」なんぞは、カラオケで何度歌った事か。

 

去年書いた記事「抱き締めたい!ミス・ソニー。」では、昔大好きだった松田聖子さんの歌ベスト5を選んだが、其の5位「Eighteen」も、平尾氏の作品だ。

 

忘れられない名作を生み出し、そして泉下へと旅立って行った平尾氏。長い間御疲れ様でした。合掌


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2 コメント

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日本の音楽史に大きな足跡を残した人 (Kei)
2017-07-26 00:17:03
平尾昌晃さん、またまた、昭和を彩った音楽人が亡くなりましたね(今年はペギー葉山さん、かまやつひろしさんと訃報が続きます)

追悼記事を読むと、多くが「よこはま たそがれ」「瀬戸の花嫁」「必殺」シリーズ等の、作曲家としての活動を功績として挙げていますが、それ以前、歌手時代に日本の音楽界に果たした功績について書かれたものが少ないのが、ちょっと残念でした。

1958年2月、第1回日劇ウエスタン・カーニバルが開催され、平尾昌晃(当時は昌章)、ミッキー・カーチス、山下敬二郎のいわゆるロカビリー3人男が出演して、これが大反響を巻き起します。私も当時は小学生で、どんなに凄かったかは後になって知るのですが、当時の記録フィルムを見ると、若い観衆は黄色い悲鳴を上げ、それだけでは足りず舞台に駆け上がり、平尾さんらに抱きつくはキスするは、あげくにステージから客席に引きずり下ろしたりの大騒ぎ(よくまあ怪我しなかったものです)。
当時のコンサートと言えば、若手ベテラン問わず、歌手はマイクの前に直立して歌い、観衆は静かに聴き入り、終われば拍手する…とまあ大人しいものでした。
ロカビリー・ブームは、そうした歌手と観衆の関係性に革命をもたらしたわけです。無論当時日本でも人気だったエルヴィス・プレスリーの影響もあったでしょうが、“観衆はロックのリズムに乗って、舞台上と一体になって熱狂してもいいんだ”というムードが一気に醸成され、これが後に同じ日劇ウエスタン・カーニバルにおけるグループ・サウンズ(GS)・ブームに繋がって行くわけです。なお同じような黄色い悲鳴と熱狂のビートルズが登場するのは第1回ウエスタン・カーニバルからおよそ5年後です。

そんなロカビリー3人衆の中でも平尾さんはまた異色でした。ポール・アンカやニール・セダカらの洋楽カバー曲を出す傍ら、1958年オリジナル曲として「星は何でも知っている」(作曲: 津々美洋)を発表、これが100万枚を超える大ヒットとなって、ロックに留まらず流行歌手としても成功を収めます。作曲を手がけたのがC/Wバンドのリーダーだった津々美洋さんという事もあって流行歌と言うよりポップスに近く、後に流行る和製ポップスのハシリとでも言うべきかも知れません。この曲は私も大好きで今でも口ずさめます。
さらに1960年、自分で作詞・作曲し歌った「ミヨチャン」がまた大ヒット。今で言うシンガー・ソングライターの嚆矢と言えるでしょう。その翌年にやはり自分で作曲した「おもいで」を発表。これは当時全然売れなかったそうですが、何故か1965年になって北海道のラジオ局から火が付いてリバイバル・ヒット、これを布施明がカバーしてこれもヒット、これがきっかけで平尾さんは売れっ子作曲家となるわけです。

ロカビリーは平尾さんだけの功績ではないかも知れませんが、シンガー・ソングライターという点では誰よりも早かったと言えるでしょう。加山雄三、荒木一郎といった大ヒット・シンガー・ソングライターが登場するのはそれから数年後の事です。
巡り合わせというものがあるにせよ、平尾さんがロック、和製ポップス、シンガー・ソングライターという、日本の音楽史の大きな転換点の、すべての先駆けとなった事をこそ、私は大いに評価したいと思います。
謹んで冥福を祈ります。
>Kei様 (giants-55)
2017-07-26 03:07:38
書き込み有難う御座いました。

平尾昌晃氏、作曲家としても一時代を築いた方ですが、歌手としても同様ですね。唯、自分は彼が歌手だった時代をリアル・タイムで全く知らない世代故、歌手としての功績を尤もらしく記すのは控えた次第です。

そんな訳で、彼の歌手時代をリアル・タイムでは知らない人間なのですが、当時の映像やら文献やらで彼がミュージック・シーンに与えた大きな影響は存じており、「凄い人だったんだなあ。」と改めて思います。

又、後進の育成や福祉活動でも、大きな功績を残した事は特筆されるべきでしょうね。彼に接した人達の証言を読むと、ざっくばらんで気取った所が無く、画面から伝わって来る雰囲気通りの方だった様で、そういう意味でもシンパシーを感じる方でした。

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