興聖寺を出て、宇治川に架かる朝霧橋を渡って橘島の北へ行き、橘橋を渡って宇治川の西岸へ移動しました。U氏の希望で平等院表参道のスタバに寄ってコーヒー休憩をしたのち、向かいの生け垣の連絡口を通って、上図の平等院の表門前へ進みました。
U氏は、寺での正式名称が北門である表門の近くに寄り、見上げるなり、ふう・・とため息をついて言いました。
「この門も伏見城からの移築って伝承があるとはなあ・・・、何度もくぐってるけれど、全然知らなかったな・・・」
私も同じように見上げながら応じました。
「こっちも同様や。伏見城からの建物の移築の件で調べていて初めて知ったんよ・・・。淀藩の永井信濃守が寄進修築してるらしいんで、これも本物なんやろう、と思う」
ただし、いまの表門の構造材の全部がそうではないようで、例えば屋根部分の部材、例えば上図の貫(ぬき)や虹梁(こうりょう)などは新しいので、現在地にて平等院の門として建てた際に、新たに改造追加した部分ではないかと思われます。
それで、改造追加した部分であると思われる屋根部分を外して捉えますと、その下の構造材がやたらに太くて表面の風蝕もかなり進んだ古びた状態であるのに気付かされます。
U氏も、そのことには気づいていたようで、「もとは冠木門(かぶきもん)だったんと違うかな。二脚だし、冠木が見事なくらいに太い立派な材を使ってる。柱なんかはけっこう高級な木材を使ってるなあ、あれ」と感心しつつスマホで撮っていました。
U氏の指摘通り、もとは冠木門だったのだろうと思います。屋根を取っ払って、二脚の柱の切断された上端を復元すれば、城郭では一般的な通用門の形式であった冠木門の姿になります。
ただ、冠木門としては間口が広い方に属しますので、城郭の通用口のなかでもメインの導線にあたる主要な虎口に設けられていた可能性が考えられます。
門に向って右側の柱を中心とする軸部の様子です。柱の上端は屋根を設ける際にカットされていますが、横材の冠木はカットされた形跡がなく、端の切断面はもっと古い風化浸蝕の様相を示しています。現在地に移築される前からの状態をそのまま伝えているようです。
屋根裏を見上げてみると、御覧のように冠木と柱だけが古びています。表面もかなり風蝕が進んでいます。消去法でいえば、冠木と柱以外は後世の追加、すなわち現在地に平等院の門として移築された際の改造部分、とみることが出来ます。
それでは門扉はどうか、とその軸部と本体に視線を移しました。門扉本体もやはり古びた雰囲気がありますので、これも移築前からの部材がそのまま引き継がれている可能性が考えられます。
内部から見直しても、屋根部分の構造材がやっぱり新しく見えます。木材の質や種類も異なっているように思えます。
そして、向かって左側にのみ、潜り戸が付けられます。上図はその潜り戸を内側から見たところですが、御覧のとおり頑丈に作られて閂(かんぬき)の部材も太く金具もしっかりしています。何よりも、引手(ひきて)が全く無くて外側からは開けられないような構造になっているのが寺院の門との決定的な違いです。
U氏が「寺院の山門クラスにこういう防御重視の脇戸は有り得ないもんな、最初から寺の門だったのなら、こういう脇の通用口の戸だって薄い一枚板だろうし、引手も付いてるだろうし、固定するにも閂じゃなくて鍵になるだろうな」と言いました。
したがって、伝承が史実であれば、永井信濃守によって淀城から移築転用の形で寄進され、平等院の門に相応しいように屋根を追加して改造した、旧伏見城の冠木門であったもの、ということになります。
淀城は前回の記事で述べたように旧伏見城の建物多数を移築して築かれており、幕府の老中職にあった永井信濃守が入府してからは石高の引き上げに伴って城郭と城下町の拡張が図られています。その拡張の際に、もとの建物を新しいのに置き換えたり、建て直したりした所があって、その旧建物を寄進の形で再活用すべく興聖寺や平等院に移した、というプロセスが想定出来ます。上図の門も、その一例であったのかもしれません。
ですが、平等院のほうでは、案内資料類はおろか、寺の記録においてもこの門に触れていません。専門資料のナンバーワンとして名高い岩波書店の「平等院大観」にすら、この現在の表門(北門)に関しては記載がありません。不思議なことではありますが、おそらく、寺においては正式な門ではなくて、宇治川岸に連絡する唯一の通用門であったに過ぎなかったからではないか、と思われます。
平安期の創建になる平等院には、建立以来の北大門がありましたが、当時の伽藍境内地はもっと広大なものであったため、その位置も現在の門とは異なります。北大門の後身の北門は江戸期の元禄十一年(1698)に焼失しましたが、その後は再建されなかったため、観音堂の裏手にあった通用門が北門の代わりとなって、その外側に参道が形成されていき、結果としていまの表門となって現在に至っているわけです。
門からは大勢の観光客の波に紛れて上図の鳳凰堂の前に進みました。U氏は「いいなあ」「いいねえ」「すごくいい」と感嘆句を小声で連発し、観光客の大半と同じように盛んに撮影していました。
私の方は、鳳凰堂の正面観に向き合う位置に近づくにつれて、深い感慨と限りない思い出とが胸の内に静かに湧き出てくるのを感じつつ、鳳凰堂の本尊の定朝作阿弥陀如来像の崇高なる姿を心に鮮やかに再現しては、法悦のような清らかな幸福感と、懐かしい記憶の流れとに浸るのみでした。
なにしろ、ここ平等院鳳凰堂が、私にとっては人生最高の聖地であり、語り尽くせぬ想い出の地であり続けているからです。仏教美術研究者としての長年にわたる中心的研究対象がここ鳳凰堂の本尊阿弥陀如来像とその作者であった仏師定朝であったのも大きいですが、それ以前の自身の若き日の青春の記憶の多くもここ平等院鳳凰堂に刻まれている、というのも、聖地中の聖地たるゆえんです。
そのことは、U氏もよく知っていますから、私の横に並んだ時に、小声でこう言ったのみでした。
「いまも、思い出すかね」
「うん・・・」
「・・・本当に、綺麗な人だったなあ・・・」
さきに興聖寺にて見学前にその墓前に詣でたのを思い出したように、ちらりと後ろのその方角を振り返っていました。いまも宇治川の向こう岸から鳳凰堂を見守っているであろう、亡き前妻の美しかった双眸のきらめきを、私も思い出していました。
思えば昭和60年春、平等院鳳凰堂前のこの場所にて、定朝仏を拝んではその歴史的意義のレポートの原案を呟きつつノートにメモしていた大学生の私に、背後からいきなり声をかけてきた女子高生でした。定朝に関連する平安期の史料「春記」のコピーを読んでいた私が「其ノ尊容・・・」と思わず口に出した時、背後で「満月ノ如シ、ですか?」と声がしたので驚いて振り返ると、慌てて一礼してきた彼女の笑顔がありました。運命的な邂逅だったな、と今でも笑ってしまいます。
しばらく二人で無言のまま鳳凰堂を眺めていましたが、再び歩き始めた際にU氏が言いました。
「そういえば、ここへは、怜子さんとは来たのかね?」
「いや、まだ・・・」
「そうか、やっぱりな・・・」
いまの嫁さんとは、結婚以前から京都の色々な古社寺に一緒していますが、彼女は大学時代に宮廷文化や源氏物語を研究して宇治にも何度も行っている筈なのに、嫁に来てからは、宇治市エリアの古社寺に行きたいと言ってきたことが未だに一度もありません。おそらく私の前妻の記憶に遠慮しているのでしょう。
なので、U氏は、私の推測と同じ事を言いました。
「たぶんさあ、星野が言いだして、連れていってくれるのを待ってるんと違うか・・・」
「うん・・・、実は僕もそう思ってる・・・」
「そんならさ、早く連れていってやれよ。・・・怜子さんは絶対、待ってるぞ」
「うん、そうする」
そう答えた途端、なぜか気持ちが軽くなってきて、嬉しささえもこみ上げてきたように感じたのでした。 (続く)