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鹿王院2 門前の空堀と竹林

2025年03月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 嵯峨の鹿王院は、通常は非公開であるために、同地域でも稀な紅葉の名所であることが余り知られていません。今回の特別公開は、その紅葉のピーク期に重なっているので、意図的に合わせて集客効果を狙っていたのかもしれませんが、境内には思ったよりも多くの観光客が入っていました。

 

 嫁さんが石畳道の分岐点で「どっちへ行きます?」と訊いてきたので、左方にある鎮守社には帰りに寄ろうか、と答えて上図の前方の中門を目指して歩き出しました。その選択をすぐに変更させられることになるとは、この時は予想もしていませんでした。

 

 嫁さんが「門の前に橋が架かってますよー、川が流れてるんですかね、いい感じですー」と指さしましたが、私自身は橋の両側の石積みを見て「あれ?・・・川じゃないのと違うか・・・」と呟きました。

 鹿王院は、室町幕府の三代将軍足利義満が創建した宝幢禅寺の一区画にあたります。ということは、まさか・・・。

 

 これは、空堀じゃないか・・・。と驚きまして橋の上からも見下ろして、土塀に沿ってクランクしている立派な石積みの護岸の丁寧な造りに、見事だな、と感心させられました。

 

 嫁さんも「これ人工の川みたいですねー」とすぐに悟ったようでした。

「人工の川、というのは間違いでは無いけどな、これは水を流さないから厳密には川ではない、空堀や」
「あっ、空堀っていうんでしたねー。これに水が流れてたら、二条城のお濠みたいになりますね」
「規模は全然違うけどな・・・」
「でもこの幅でもお濠としては充分なんじゃないですか?思いっきりジャンプしても飛び越えられへんし・・・」
「そうやな、防御線として必要最低限の規模はとってあるな・・・」
「えっ、じゃあ、この空堀はやっぱり防御線だったんですか?・・・お寺を護るための・・・?」
「そう思うけどな・・・、土塀は伽藍中枢部の塁線にあたるんやけど、きれいにそれに合わせて外側に空堀が巡ってる。単なる門前の施設とは明らかに違うぞ、もしかして境内地の回りを囲んでるかな」
「なんか凄そう、あっちに回って確かめてみましょうよ」

 ということで、石畳道を引き返してさきの分岐から左に進み、鎮守社の横を抜けました。

 

 左の石畳道の終点が、上図の門でした。鹿王院で「本庭」と呼ぶ舎利殿前の庭園の正門にあたり、寺では勅使門としています。今回の特別公開の順路の範囲外になるため、門前の橋とともに立ち入り禁止の竹柵がかけられていました。空堀は、その門前をも区切って更に西へ続いていました。

 

 そして中門の右手の東側にも空堀がずっと続いて、土塀に沿って屈折しているのが認められました。つまり、鹿王院の中心伽藍のエリアは南、東とも空堀で囲まれているわけです。西側は墓地や住宅地や駐車場、北側は嵐電の線路になっていて入れませんから、そこまで空堀が巡っているのかは確認出来ませんでした。

 ですが、足利義満の本邸だった鹿苑寺の北山第も、創建当時は周囲に空堀を巡らせて、いまでも鹿苑寺山門前や境内地外郭に空堀の一部が残されています。また義満が創建して京都五山の筆頭格に据えた相国寺も、かつては周囲に二重の堀を回していたようで、その一部が発掘調査で検出されています。

 鹿王院も、足利義満が建てた宝幢禅寺の開山堂院が前身ですから、寺では開山と鎌倉幕府ゆかりの舎利を祀る最重要の区画に相当していた筈です。その境内地を護るように空堀が巡らされていても不思議はありません。やっぱり武門の棟梁の寺なればこその、有事への備えだったのだろうと思われます。

 そういえば、さきの鎌倉幕府においては、寺社と言えとも騒乱、戦火を免れる事はなく、将軍が社寺にて襲撃を受ける最悪の事態が数度に及んでいます。それで源氏の二代将軍頼家、三代将軍実朝も揃って斃れ、源氏の正統は途絶えてしまいました。その悲惨な歴史を教訓としての、源氏分流の足利将軍家の護りの備えであった、とみるべきでしょう。

 

 なので、勅使門および空堀の南側に鎮座して南ではなく東を向いて山門からの石畳参道筋に面している上図の三社明神社も、寺の歴史と密接に関わる鎮守社であった可能性が考えられますが、鹿王院の寺誌や資料類にはこの三社明神社の記載がありません。

 三社明神社とは、一般的には国家として特に崇拝した三つの神社を指します。 多くの場合、伊勢神宮と石清水八幡宮と賀茂神社、もしくは、伊勢神宮と石清水八幡宮と春日大社を指し、祭神名でいうなら天香語山命、天火明命、建稲種命の組み合わせが多いようです。
 しかし、ここ鹿王院の三社明神社の祭神については、神殿や名札らしきものが見えず、説明板も無いので分かりませんでした。
 

 三社明神社の南側は竹林になっていますが、そのなかに上図のような、嵐山の竹林の小径のミニチュア版のような散策路が整備されていました。嫁さんが「素敵じゃないですか、嵐山の本家よりこっちのほうがいい感じ」とその道をたどっていきました。

 

 この竹林は、寺で聞いた話によれば、戦前までは寺の周囲をぐるりと囲んでいたそうです。それが戦後の宅地化によって削られていき、墓地やマンションや駐車場などに転じて行って、いまでは南側の境内地内の竹林だけが残っている、ということです。
 山門からの石畳参道の西側に見えていた竹林がこれでしたが、範囲は南北に50メートルも無いので、上図の散策路も50メートルに満ちませんでした。歩いて行くとすぐに山門の横に出てしまいますが、雰囲気は良かったです。

 

 それで境内地の外郭に戻って空堀を再び見ながら中門へと向かいました。

 

 何度見ても立派な空堀です。鹿苑寺の空堀もかつてはこうした石積みを備えていたと思われますが、江戸期の整備事業により山門前の部分のみが水濠に変えられて石積みも切石組みに更新されています。それで室町期の足利将軍家全盛期の遺構としては、この鹿王院の空堀が唯一の例なのだろうと思います。

 そして空堀の外には竹林がありましたが、この堀と竹林の組み合わせは、そのまま中世戦国期の館や城郭の一般的な防御線であった堀と竹藪の組み合わせに繋がるわけです。戦国乱世の頃には全国各地に見られた堀と竹藪の組み合わせですが、そのルーツのひとつが、鹿苑寺や鹿王院のような室町幕府足利家の直轄寺院の備えだったのかもしれません。  (続く)

 


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