気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影25 興聖寺本堂

2024年09月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 翌4月14日は快晴でした。U氏はいつもの祇園四条のカプセルホテルに連泊して祇園四条駅から京阪電車に乗り、私はその列車に清水五条駅から乗り込んで合流、宇治駅まで行きました。U氏との宇治行きは、実に10年ぶりのことでした。

 京阪宇治駅からは、おなじみの朝霧通りを歩いて宇治川の東岸を進み、観流橋を渡って上図の槇ノ尾山(御所山遺跡)が見える地点まで行きました。U氏も宇治へは何度か来ているそうで、ゆっくり歩きながら景色を楽しんでいましたので、私も歩速を落としてそれに合わせました。

 

 宇治川の流れをしばらく眺めた後、琴坂と呼ばれる上図の長い参道を進み、興聖寺の境内地に入りました。

 

 興聖寺山門付近の桜。

 

 興聖寺の山門の前にて、U氏が立ち止まり、ちらりと私を見て問いかけました。

「で、行くのか?」
「ああ」
「俺も行っていいかな?」
「もちろん」

 ということで、山門を入る前に大事な寄り道をしておきました。

 

 再び山門の前に戻りました。御覧の通りの竜宮造で、江戸期の天保十五年(1844)に改築されています。宇治市の有形文化財に指定されています。

 

 山門をくぐり、階段をあがって、寺では「中雀門」と呼んでいる江戸期弘化三年(1846)建立の薬医門をくぐると、すぐ右側に上図の石塔の笠石と相輪があります。U氏が「これって、浮島の十三重石塔のてっぺんの部分だろ」と指さしました。その通り、鎌倉期の国重要文化財の浮島十三重石塔の遺品であり、塔が明治四十一年(1908)に再建された後で宇治川から発見され、ここ興聖寺に移されて保管されています。

 

「で、あれが問題の本堂だな。前にも見てるけど、伏見城からの移築というのは知らなかったから、今あらためて見ると、いかにもそれっぽいな」
「それっぽい、じゃなくてこちらのは本物だろうと思うけどな」
「本物だとしても、伏見城にあった頃の姿とは違ってるような感じだな。屋根とかは改造されてるんと違うかね」

 U氏の言う通りでした。本堂の建物は、 慶安元年(1648年)に伏見城からの移築建築を用いて改築したといいます。伏見城合戦の東軍鳥居元忠以下の将兵の血が付いたままの床板を天井板として使っており、他の場所にもある血天井に比べると血痕の残り方が生々しいため、西賀茂正伝寺本堂の血天井と並べて有名になっているそうです。

 

 本堂の正面部分です。屋根は改造されているようですが、主屋部分は広縁と落縁の造りも含めてほとんど改変が加えられておらず、中央の石段からあがる部分も間口を広げるだけの改造にとどめています。昨日見てきた養源院本堂の客殿とよく似た構造、外観を示しており、落縁の外側に雨戸が付いている点も共通しています。
 なので、もともとは養源院本堂の客殿と繋がっていた、と推定しても違和感があまり感じられません。

 

 内部空間は、仏堂に転用する際に最低限の改造、つまり中央の間口を広げて奧室に須弥壇と厨子を入れて板敷を入れてあるほかは、書院時代のままの間取りを伝えています。

 徳川家の正史である「徳川実記」によれば、伏見城の廃城後の元和九年(1623)8月、二代将軍徳川秀忠の命により松平越中守定綱が淀藩3万5千石へ入部、淀城を幕府の援助によって築いて最初の城主となりました。築城に際して廃城となった伏見城の資材が転用され、天守は二条城より移築し、寛永二年(1625)にほぼ完成したとされています。

 その後、寛永十年(1633)に松平越中守定綱は美濃国へ移封され、代わって幕府の老中職を勤めた永井信濃守尚政が10万石で淀に入部、城郭と城下町の拡張を図り、侍屋敷の造営が行われたといいます。

 

 いまの興聖寺は、その永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)に現在地に再興したものなので、淀城の拡張工事の際に旧伏見城の建物を新造の建物に置き換えたうえで、古い建物を興聖寺再興の際に本堂として再利用した可能性があります。

 寺では単に旧伏見城からの移築と伝えていますが、実際には淀城に移築されていた旧伏見城建築の再移築、と考えたほうが良さそうに思います。

 

 本堂に向かって右側には、上図の式台があります。これも本堂に付属する建築として旧伏見城からの系譜が推測出来そうに思われますが、間取りを見ると、むしろ奥に繋がる明治四十五年(1912)建立の大書院と共通した空間構成になっているようですので、大書院とともに付けられた式台だろうと思われます。

 大正八年(1919)に貞明皇后がここに行啓された際に大書院に逗留されたといい、その際にこの式台が玄関口として使用されたそうです。

 

 式台の破風の妻飾りもシンプルです。装飾意匠も控えめで、あまり旧伏見城建築の雰囲気が感じられません。

 

 したがって、伏見城から淀城を経て、先の老中にして淀藩主の永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)の興聖寺再興に際して移築せしめた旧建築とは、上図の本堂部分のみ、としておくのが良さそうです。

 この本堂に関しては、寺に伝わる再興時からの記録である「宇治興聖寺文書」に何らかの記載があるのかもしれませんが、まだ閲覧の機会を得ていません。「宇治興聖寺文書」は同朋舎出版から3巻で刊行されているので、機会があればどこかの図書館で読んでみようと思います。

 

 いずれにしても、寺院の本堂にしては変わった造りの建物であることが、遠くから見るほど強く感じられます。屋根は大幅に改造されているようですが、主屋部分は城郭の御殿建築、書院建築特有の外観を呈しているからです。
 拝観料を払えば内部にも入れますが、U氏も私も過去に何度か入っているので、今回は外からの見学にとどめました。

 

 以上、興聖寺本堂でした。徳川期再建の旧伏見城からの移築建築の典型的な一例、とみておいて良いでしょう。

 寺の再建に幕閣の老中職を勤めた永井信濃守尚政が関わっており、その居城だった淀城は、旧伏見城の資材を転用して建てられ、二条城より移築したという天守も元は伏見城の天守だったそうです。つまり、永井信濃守尚政は、当時最も多くの旧伏見城移築建築を用いた城に住んでいたことになります。したがって、旧伏見城の建物を興聖寺に転用出来る権限があった、唯一の幕府重鎮であったことになります。

 その永井信濃守尚政が、興聖寺と宇治川をはさんで向かい合っている平等院にも修復寄進をしているのですが、その平等院にも伏見城からの移築と伝える門の建築が二棟あります。次は、その平等院へ向かいました。  (続く)

 

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