白雲神社は、かつてここにあった西園寺邸の邸内鎮守社で、鎌倉期の元仁元年(1224)に西園寺公経が北山第造営に際し建立した妙音堂の後身であるとされます。その後衰退しますが、江戸期の明和六年(1769)に西園寺邸とともに御苑内に移り、明治以降に西園寺家が東京に移った際にも現地に残されて今に至っています。
拝殿前より、西の鳥居および西口を見ました。境内地が西面するのは、西園寺邸の鎮守だった頃からの名残で、西園寺家の最初の邸宅であった北山第西園寺旧地の方角に向けてあるからだそうです。
改めて西口に行って鳥居前に正対しました。こちらが正面です。祭神の市杵島姫命は、仏教化して妙音弁財天とも称され、中世から琵琶の宗家とされた西園寺家において音楽の神として祀られてきた歴史を持ちます。本殿に安置される鎌倉期の木造弁才天坐像は、かつての北山第たる西園寺の妙音堂の旧本尊であったもので、国の重要文化財に指定されていますが、御神体として非公開であるため、一般にはあまり知られていません。
鳥居横の説明板です。一部の文が風雨で薄れて読みづらくなっていました。
本殿の背後に鎮座する「薬師石」と呼ばれる神体石です。いまは「御所のへそ石」などと呼ばれていますが、おそらくはかつての北山第西園寺家の敷地内にあった磐座をもってきたのではないかと思われます。
北山第が位置した左大文字山はもとは洛北の神奈備のひとつで、古くから信仰を集めた山であり、かつては山裾に多くの磐座があったのを、西園寺家の北山第の庭園造営にて神体石を兼ねた景石として取り込んだ流れがあったといいます。いまの鹿苑寺境内地北側の安民沢(あんみんたく)が北山第の庭園の遺跡ですが、その周囲にはいまも磐座とみられる露岩が散見されます。
本殿の金具にあらわされた左三つ巴の紋は、西園寺家の家紋です。西園寺家は藤原北家閑院流の一門で、支流には菊亭家、洞院家、伊予西園寺家などがあります。西園寺家の家名そのものは、4代当主の公経が北山に建立した山荘の北山第に付属した寺院の西園寺にちなみます。
西園寺は戦国期に鞍馬口の寺町通に面した現在地に移されて今に至りますが、その本尊である鎌倉期の阿弥陀如来坐像もかつての北山第西園寺の本尊であったものです。
社務所には、本殿に安置される鎌倉期の木造弁才天坐像のカラーイラストも懸けられてありました。御神体として非公開であるため、一般にはあまり知られていませんが、私自身は以前に鹿苑寺関係の調査報告書等の図版でその美しい姿を見たことがあります。まさに上図のカラーイラストの姿で、中世期の女性形彫像の遺品としては屈指の優品です。現存する二臂弁才天像としても最古の遺品です。
参拝を終えて退出しました。
境内地のある一帯は、かつての西園寺家の邸宅跡です。上図は跡地に立つ説明板です。
西園寺邸跡のほぼ中心あたりに、上図の標柱がたてられています。西園寺家の邸宅といえば、いま京都大学の管理施設となっている、西園寺公望の京都別邸であった清風荘の建築群が挙げられます。私自身は、博物館明治村に移築保存されている旧西園寺家興津別邸も見学したことがありますので、かつて御苑内にあった西園寺邸の立派さがある程度リアルに想像出来ます。
西園寺邸跡から北へ進んで次の辻にて右側、東を見ると、京都大宮御所の正門が望まれました。一般参観は行われているのかどうか知りませんでしたが、もしやっているのならば後で立ち寄ろう、と考えました。 (続く)