日々是好日日記

心にうつりゆくよしなしごとを<思う存分>書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ

「本能寺の変」で事件現場に不在?の明智光秀

2021年01月12日 07時25分50秒 | 政治
 NHKが得意の歴史「捏造?」大型時代劇、コロナ騒ぎですっかり予定を消化できずに年を越して上映中の「麒麟がくる」。実は筆者は今まで一度も該番組を見ていない。いよいよ放送は「本能寺の変」になるのだそうだが、このタイミングで興味あるニュースが富山県から寄せられた。
 西暦1582年、明智光秀が主君織田信長を殺害に及んだ本能寺の変。当然?のことながら、「事変」当夜光秀は全軍を指揮できる本能寺近くに在って、「敵は本能寺!」と叫んだかどうかは分からないが、燃えさかる本能寺の炎を眺めながら、起きた事件の大きさに大いにおののいていたであろうと想像するところだが、どうもそうではなかったという。
 事件の87年後にまとめられたという「乙夜之書物(いつやのかきもの)」という古文書によれば、光秀本人はその時刻本能寺現場に足を運んでおらず、そこから2里も離れた鳥羽にいたという。しかも、どうやら富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員ら専門の複数の歴史学者によればこの著述の信憑性は非常に高いという。「本能寺の変」と言えば織豊政権の画期となったという意味で歴史の「大変極点」だが、その時の事実が伝えられていたものと異なるというのである。
 歴史上の「変極点」と言えば数限りなくある。たとえば「関ケ原の合戦」、この時、徳川家康は江戸でぬくぬく風呂に入っていたなど有り得なかったとしても、戦場遥か離れた場所でお茶を立ててくつろいでいたなどとは考えられない。がしかし、「本能寺の変」にして「総大将=明智光秀」不在ということであるなら、それもあながち有り得ないことではないのかもしれない。
 こう見てくると、歴史上の画期となった時代の変極点で起こっている様々な「その時」についてもっともっと真相を解明していく必要が有りそうだ。この国では、歴史が「科学」ではなく「思い出」と理解されていた長い長い時代があった。歴史が「社会科学」として認識されたのはこの国では決して古い話ではなく、あの大戦での完膚なきまでの敗北によって、それも敵国米国のアカデミーからの「指導」によって「強要された」ことによるのであってみれば、暗黒蒙昧の時代の日本史には事件現場に総大将の居なかった「本能寺の変」の類いの歴史事件は数多くあるのではないだろうか?
 少なくとも、あの大戦中、「西太平洋」「印度支那半島」一帯で戦わされていた絶望的な作戦では、その全てを指導していた東京の将軍らは言うに及ばず現地責任者の多くも生死の戦場からは遠くで指揮を執っていて、戦後も長く生きて天寿を全うした大物が数多くいた。
 講談的歴史ではなく、「社会科学」としての「歴史」として、本能寺に不在の明智光秀の真実としての日本の歴史を見直す必要は無いのだろうか? いま、学術会議任命拒否問題ではもっぱら社会学者が政権から忌避されている。こういう非知性こそが歴史を「講談話」にしてしまう主因である。「反知性」が売りの菅首相には是非とも猛省を奨めたい。