忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって03:覚醒・至高体験とは①

2012年04月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
1 覚醒・至高体験とは?

以上のように私自身は、覚醒と至高体験という二つの言葉をはっきり区別して使用している。この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っている。  

◆自己実現した人間
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的傾向を持っている。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達しうる最高の状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼んだ。  
しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについてまわるだろう。そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循環的方法を採用した。
 
循環的方法とは何か。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた「人間性」を意味するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の上でも矛盾するところがあればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。
 
こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。このようにラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。 このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的なものにしながら研究を深めていくのである。  

こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、自己実現したと思われる多くの人々を研究した。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということだった。
   
平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼はB認識と呼んだ。BとはBeing(存在・生命)の略である。こうした認識のあり方が、実は覚醒とか自己超越とか呼ばれるものとぴったりと重なるといえよう。

◆至高体験  
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、 ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからである。
「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験のことだ。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れない。あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで体験されるかも知れない。  

ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもあるといわれる。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないだろうが、しかし、マズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気がついたという。  

ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではあるが、ある程度は垣間見せてくれるということだ。何らかの「至高体験」を持ったことがある者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示すのである。つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になる。私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者である。  

こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的なものにし、その内容をより豊かなものにした。  

以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけただろう。至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのである。


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