忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって02:はじめに②

2012年04月20日 | 覚醒・至高体験をめぐって
ブログに掲載するにあたっては、少し体系的な分類をして考察を加えてみようかと、あれこれ考えた。しかし、きっちりと分類することなどとうてい無理だということがすぐに分かった。事例をどのように分類するかということ自体が、事例のどのような特徴に注目をするかという視点と分離することができない。どの視点を取るかによって、ひとつひとつの事例が、様々な特徴を見せ、様々な洞察をもたらしてくれるように思う。

結局、今この時点で筆者がもっている関心から分類の当面の視点を選び、その視点からいくつかの事例を選んで若干の考察を加える。そうしているうちに関心が変化し、別の視点が芽生えたら、またその視点からいくつかの事例を選んで考える、そんなことを繰り返していくほかないだろう。

連載の出発点に立った今、取り上げたい二つ三つの視点はもっているが、それ以上の計画はない。体系的な分類とか、まとまった流れとかには、それほどこだわらずに進めたい。ある程度、一定の視点を保ちながらも、その時々の関心から、かなり自由に事例を選んだり、考察を展開したりしようと思う。また、考察は簡潔を旨とし、事例そのものが人々に与える感動が損なわれないよう考慮したい。

さて、始めるにあたって何よりもまずに明らかにすべきことがある。それは「覚醒」とは何か、「至高体験」とは何か、そして両者の違いは何かということである。これは、事例集に何をどんな基準で加えるのかという、この事例集の根幹にかかわる問題である。と同時に、第一に取り上げるべき分類ということになる。
しかし、これらの問いについていきなり論じ始めるよりは、まずはこの問いにふさわしい事例を取り上げたいと思う。事例を中心に、事例に沿いながら話を進める方が、この連載の展開としてはるかにふさわしい。

◆エックハルト・トールの体験
エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(徳間書店、2002年。原題は、The Power of NOW)は、「普遍的な魂の教え、あらゆる宗教のエッセンスを統合し、現代向けに書き改めた書」であり、「大いなる存在が、自分とともにある」ことがどんなことなのか、どうすればそうなるのか、きわめて分かりやすい言葉で、説得力をもって語られている。この本の冒頭には、エックハルト・トール自身の覚醒体験が語られている。最初に「覚醒」とは、何かを確認するのにぴったりの事例だと思う。

トールは、三十歳になるまで、たえまのない不安やあせりに苦しみ、自殺を考えたこともあるほどだという。

二十九歳の時のある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いにおそわれた。あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」だった。しかも、自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられたのだ。(下のリンクで、エックハルト・トール自身の言葉で、その体験が語られている。) 

エックハルト・トールの事例

◆増えも、減りもしない
トールの体験の記述は、その後のことなどまだ続くが、中心部分はここまである。彼は、この体験後、「なにものにもゆらぐことのない、深い平和と幸福に包まれた日々を送った」という。5ヵ月後、至福感はやわらいだような気がするが、それはたんに 至福感に慣れただけなのかも知れないとも言っている。

ともあれ、彼がこの体験でつかんだ「宝」は、増えも減りもしないことはよくわかったという。つまり、彼の体験は、一時的な「至高体験」ではなく、まぎれもない「覚醒」だったのである。

これで、エックハルト・トールの体験を最初に紹介した理由をご理解いただけたであろう。端的に言えば、「至高体験」とは、一時的な「覚醒」であり、「覚醒」とは、永続的な「至高体験」だといえよう。エックハルト・トールの場合は、体験でつかんだものが、増えも減りもしない永続的なものであることを明言しているのである。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって01:はじめに①

2012年04月20日 | 覚醒・至高体験をめぐって
以下は、Noboruのホームページ『臨死体験・気功・瞑想』のなかの「覚醒・至高体験の事例集」に関係する考察である。一部はすでに別ブログで発表したものであるが、「覚醒・至高体験」は、それを経験した人の「原体験」になることが多い。よってこのブログに再録する価値は十分にあると思う。もちろん概念としては「原体験」の方が広い意味を持ち、「覚醒・至高体験」は原体験の一部ともなりうるということである。覚醒と至高体験の意味は、これからの考察の中で明らかにしていきたいと思う。

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「覚醒・至高体験」の事例を集めたいという思いは、私の中にかなり以前からあった。私自身が、そうした事例に接する度に深く心を動かされ、勇気付けられ、影響を受けてきたので、それらを集めた事例集のようなものを作ることは大いに意味のあることだと感じていた。また、拙著『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』(アルファポリス刊)のひとつのテーマが、臨死体験と「覚醒・至高体験」とを比較することだったので、その意味でも事例を集める必要があった。

本格的に収集し始めたのは、1999年12月にサイト『臨死体験・気功・瞑想』を公開し、「覚醒・至高体験の事例集」という頁を作り始めてからである。事例の数が増えるにつれ、事例集は分量からしても反響からしても、このサイトの中心になった。そして、私がそうだったように、多くの読者が、事例集を読んで感動したり勇気付けられたりしているようだ。また、サイトを公開したことによって、ご自身の体験を投稿してくれたり、「この本にこんな体験が掲載されていた」と情報を提供してくれたりする人も多くなり、掲載される事例は徐々に増え、すでに80人を超える人々の事例が集まっている。

サイトの「覚醒・至高体験の事例集」では、数多い事例を以下のように整理して掲載している。すなわち「臨死体験者の場合 」「気功・ヨーガ行者の場合」「宗教家の場合」「スポーツ選手の場合 」「普通の人々の場合―1・2」 「『光』体験をともなう場合 」「『世界が輝く』場合」「病とともにある場合」「西欧の神秘家たち」「『あえて分類せず』の場合」の10項目だ。この分類はもちろん便宜的なもので、分類がないよりは、ある方が少しは見やすいだろうし、どこから読み始めるかのある程度の目安になるだろうという目的のためにすぎない。

たとえば「光をともなう場合」と「気功家・ヨーガ行者」など、性格や分類の視点が全く違う項目を並列的に分類するのは、研究という視点からはナンセンスである。また、普通の人々の体験が病をともなったり、宗教家の体験が光をともなったりする場合もある。どちらの分類に入れるかは私の感覚的な判断にしたがっている。(Noboru)