忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって05:覚醒・至高体験とは③

2012年04月23日 | 覚醒・至高体験をめぐって
◆至高体験は多く、覚醒は稀

こうして玉城氏は、その稀有な求道の果てに「爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う」、「形なき『いのち』が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく。その凄まじい勢いは、何物にも警えようがない」という境地に至るのである。少なくともこれは、つかのまの「至高体験」ではありえない。
若き日の一時的な大歓喜の繰り返しの果てに至りついた、形なき「いのち」への目覚めだったのである。

さて、この事例によって、つかの間の至高体験と真の覚醒との間に横たわる深い溝を感じ取っていただけただろうか。事例を収集してきた私自身の感触から言えるのは、至高体験は一般的に予測されるよりも、はるかに多くの人々が持っているらしいということ。しかし、永続的な覚醒は、きわめて稀な出来事であるということである。

先に「覚醒・至高体験の事例集」には、80余人の体験が集まっているといったが、そのなかで永続的な覚醒と言えるのは、おそらくほんの数例だろう。「おそらく」としかいえないのは、事例の報告のなかに「永続的な覚醒」と言えるような表現や特徴がはっきりと現われているかどうかで、筆者自身が判断するほかないからである。

一言で「至高体験」といっても、その内容や深さには、事例によってかなり大きな差があるだろう。今後、至高体験のさまざまな事例を検討していくことになるが、そこにはほとんど無限といってよいほどのバリエーションがある。とすれば、永続的な至高体験としての覚醒にもまた、さまざまなレベルや内容の違いがあり、おそらくその深さの違いは無限といってもよいのだろう。

とすればなおさら、何を「覚醒」とし、何を「至高体験」とするのか、探求の出発点において、ある程度の目安がなければならない。現象としての覚醒や至高体験には無限といってよいほどの諸相があるにせよ、両者を成立させる何らかの共通の構造もまたあるはずである。この連載のテーマは、多くの事例を検討しながら、その「共通の構造」を探っていくことだといってもよい。その探求の手がかりとしてわれわれは、マズローの研究の成果を持っている。それが、この連載にとっての「循環的方法」の出発点となるだろう。