忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって04:覚醒・至高体験とは②

2012年04月22日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《玉城康四郎》
ここで再び事例を取り上げたい。若き日に繰り返された至高体験が、やがて晩年の覚醒へとつながっていくという意味で、ここに紹介するにふさわしい事例だろう。

故・玉城康四郎氏は、専門である仏教研究にとどまらず、近代インド思想、さらには西洋の諸思想をも幅広く考察し、それらの〈根底にあるもの〉をつねに探求し続けた。また学者であると同時に、稀に見る求道の人であり、深い宗教体験も持つ人である。しかし、その求道は苦難の連続であったようだ。

まずは若き日の至高体験を取り上げる。『冥想と経験』(春秋社、1975年)その他、彼のいくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ』(大蔵出版、1995)から収録する。

東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

玉城康四郎の事例(1)

このように玉城氏は、若き日の苦悩のなかで一時的に大爆発を起こし、「覚醒」するものの、しばらくするとまたもとのもくあみに戻ってしまう、ということを何度か繰り返した。つまり、われわれの使い分けで言えば一時的な至高体験はあったが、永続的な覚醒には至らなかったのである。それゆえ一時は、今生で仏道を成就し覚醒を得ることに絶望することもあったが、それでもひたすらに仏道を求め座禅を続けた。

そして最晩年に、ついに下に見るような覚醒に至るのである。求道への、その真摯で変わることのない熱情には頭が下がる思いである。(以下も『ダンマの顕現』大蔵出版、よりの収録である。)

玉城康四郎の事例(2)


(Noboru)