これは疑似科学やオカルトに対して懐疑的な立場を取ることで知られる「と学会」の会長でもある山本弘氏が書いたオカルト批判である。この本の中で氏はこう主張する。
トンデモさんたちの論理は時として完璧である。だから論理によって彼らの信念をくつがえすことはできない。
これを聞いてあなたは
「論理的に完璧ならば彼らは正しいのではないか?」
と疑問に思うかもしれない。
しかし実は論理的に完璧であることと、その論理が実際に正しいかはまったくの別のことなのである。
彼らが共通して犯している誤りは、「説明」と「証明」の区別がついていないことである。
超能力は「シンクロニシティ」で説明でき、
この世のあらゆる事件は「ユダヤの陰謀」で説明でき、
フリーエネルギー研究者は「真空中に未知のエネルギーが存在する」と説明する。
これらの説明が間違っていると証明することはできない。
私たちは覚えておくべきである。
この世には完全に間違っていると論理のみで証明できることは何一つありはしないということを。
私たちがどれだけ上の論理が荒唐無稽であると訴えても、彼らは次々に新しい(何の実証も伴わない)概念や証拠(と彼らが思い込んでいる妄想)を提示してくるだろう。
この方法を使われると、私は「人間が犬である」ことが間違っていると証明できないし、あなた方にもそれはできない。
しかしである。私たちはもう一つの真実も忘れてはいけない。
「間違っていると証明できない」ことと「正しいと証明された」ことの間には、途方もなく大きなギャップがあるということを。
少なくとも科学の世界では実験で確かめられたことだけが信じるべき現実なのである。
たとえばトンデモさんたちは、この世界で起きている現象を説明する方法を発見する。
その説明には矛盾がなく、間違っていると証明することもできない。
彼らは世界の真相がついに明らかになったと考え、大発見に狂喜する。
誰にも見つけられなかった真実に気がついた自分の聡明さに彼らは満足するのである。
しかし彼らが気がづいていないのは、彼らの信じる「真実」は世界を矛盾なく説明する一千通りもの手段の一つに過ぎない、ということである。
通常の科学の世界では、そうはいかない。
実験で証明されない説は、ただの仮説にすぎず、事実とは認められない。
たとえばアインシュタインの相対性理論は、最初 さまざまな物理現象を「説明」する仮説として導入された。
だが世界中の科学者が即座に事実として受け入れたわけではない。多くの実験や観測を重ねることにより、正しいと信じられるに至ったのである。
よくトンデモさんたちはこう言う。
「俺の理論が間違っていると言うならば、それを証明してみせろ!」、と。
しかし先に述べたようにこれは不可能である。
(もちろん彼らの話が常識的におかしいことを説明することはできる。しかしそれは証明ではないし、彼らは常識をバカにしているのでこちらの説得は馬耳東風になる)
しかしである。ここで冷静に考えてみたい。いったい立証責任はどちらにあるのだろうか?
通常の裁判などでは自分の発言が正しいことを証明する義務は意見を主張する側にある。
トンデモさんたちにも同じことが言える。私たちに彼らの理論が間違っていることを証明する義務はないのである。
法外な主張をした者こそが、大いに努力してそれを証明しなくてはいけない。
私たちは持ち込まれた証拠の是非を判断するだけでいい。
だから私たちは彼らに向かってこう言えばいいのだ。
「そんなことをする義務はこちらにはない。むしろ君は君の理論が正しいことを証明できるのか?」、と。
トンデモさんたちの理論の特徴は間違っていることが証明できない代わりに、正しいことも証明できないというところにある。
ところで、このような「説明」と「証明」の区別ができないことから起きる混乱と最も身近な位置にいるのが現在の理論物理学でもある。
なぜなら高エネルギー物理学の世界では、扱う現象や理論のエネルギーレベルがあまりにも高すぎるため、現在の技術では実験で検証することができない。
現在の人類が持ちうる最大のエネルギーは2005年度に稼動予定の陽子・陽子衝突型加速器LHCの持つ16TeV(テラエレクトロンボルト)である。
しかし超大統一理論を検証するためには1000万TeVという途方もないエネルギーが必要である。
だから私たちは理論を作ってもそれを証明することができない。証明することもなく、ただ現象を説明することしかできないのだ。
もちろん加速器に頼らない別のアプローチからの実験や間接的に正しいと思われる実験的証拠を挙げることは現在でも盛んに行われている。
しかしそれでもなお、私たちは時々「説明」と「証明」の区別ができなくなり混乱することがないだろうか?
、、、まぁ、どうでもいいことではありますが。
トンデモさんたちの論理は時として完璧である。だから論理によって彼らの信念をくつがえすことはできない。
これを聞いてあなたは
「論理的に完璧ならば彼らは正しいのではないか?」
と疑問に思うかもしれない。
しかし実は論理的に完璧であることと、その論理が実際に正しいかはまったくの別のことなのである。
彼らが共通して犯している誤りは、「説明」と「証明」の区別がついていないことである。
超能力は「シンクロニシティ」で説明でき、
この世のあらゆる事件は「ユダヤの陰謀」で説明でき、
フリーエネルギー研究者は「真空中に未知のエネルギーが存在する」と説明する。
これらの説明が間違っていると証明することはできない。
私たちは覚えておくべきである。
この世には完全に間違っていると論理のみで証明できることは何一つありはしないということを。
私たちがどれだけ上の論理が荒唐無稽であると訴えても、彼らは次々に新しい(何の実証も伴わない)概念や証拠(と彼らが思い込んでいる妄想)を提示してくるだろう。
この方法を使われると、私は「人間が犬である」ことが間違っていると証明できないし、あなた方にもそれはできない。
しかしである。私たちはもう一つの真実も忘れてはいけない。
「間違っていると証明できない」ことと「正しいと証明された」ことの間には、途方もなく大きなギャップがあるということを。
少なくとも科学の世界では実験で確かめられたことだけが信じるべき現実なのである。
たとえばトンデモさんたちは、この世界で起きている現象を説明する方法を発見する。
その説明には矛盾がなく、間違っていると証明することもできない。
彼らは世界の真相がついに明らかになったと考え、大発見に狂喜する。
誰にも見つけられなかった真実に気がついた自分の聡明さに彼らは満足するのである。
しかし彼らが気がづいていないのは、彼らの信じる「真実」は世界を矛盾なく説明する一千通りもの手段の一つに過ぎない、ということである。
通常の科学の世界では、そうはいかない。
実験で証明されない説は、ただの仮説にすぎず、事実とは認められない。
たとえばアインシュタインの相対性理論は、最初 さまざまな物理現象を「説明」する仮説として導入された。
だが世界中の科学者が即座に事実として受け入れたわけではない。多くの実験や観測を重ねることにより、正しいと信じられるに至ったのである。
よくトンデモさんたちはこう言う。
「俺の理論が間違っていると言うならば、それを証明してみせろ!」、と。
しかし先に述べたようにこれは不可能である。
(もちろん彼らの話が常識的におかしいことを説明することはできる。しかしそれは証明ではないし、彼らは常識をバカにしているのでこちらの説得は馬耳東風になる)
しかしである。ここで冷静に考えてみたい。いったい立証責任はどちらにあるのだろうか?
通常の裁判などでは自分の発言が正しいことを証明する義務は意見を主張する側にある。
トンデモさんたちにも同じことが言える。私たちに彼らの理論が間違っていることを証明する義務はないのである。
法外な主張をした者こそが、大いに努力してそれを証明しなくてはいけない。
私たちは持ち込まれた証拠の是非を判断するだけでいい。
だから私たちは彼らに向かってこう言えばいいのだ。
「そんなことをする義務はこちらにはない。むしろ君は君の理論が正しいことを証明できるのか?」、と。
トンデモさんたちの理論の特徴は間違っていることが証明できない代わりに、正しいことも証明できないというところにある。
ところで、このような「説明」と「証明」の区別ができないことから起きる混乱と最も身近な位置にいるのが現在の理論物理学でもある。
なぜなら高エネルギー物理学の世界では、扱う現象や理論のエネルギーレベルがあまりにも高すぎるため、現在の技術では実験で検証することができない。
現在の人類が持ちうる最大のエネルギーは2005年度に稼動予定の陽子・陽子衝突型加速器LHCの持つ16TeV(テラエレクトロンボルト)である。
しかし超大統一理論を検証するためには1000万TeVという途方もないエネルギーが必要である。
だから私たちは理論を作ってもそれを証明することができない。証明することもなく、ただ現象を説明することしかできないのだ。
もちろん加速器に頼らない別のアプローチからの実験や間接的に正しいと思われる実験的証拠を挙げることは現在でも盛んに行われている。
しかしそれでもなお、私たちは時々「説明」と「証明」の区別ができなくなり混乱することがないだろうか?
、、、まぁ、どうでもいいことではありますが。