玄文講

日記

神田森莉「37564ひめゆりの島」

2004-11-18 21:19:11 | 
昨日紹介したように、神田森莉さんという漫画家がいる。
今は実録モノのマンガを書いているが、昔はホラーマンガを書いていた人である。
私はこの人のマンガが好きである。おおやけに公開するサイトで「ホラーマンガ好き」を公言するのは私の人生にとっては大いにマイナスであるのだが、あんまり人の来ないサイトゆえに「まぁ、いいか」と思い公言することにした。
ホラーマンガ最高!
ルキオフルチも真っ青の、血ヘドぶちまく阿鼻叫喚地獄!
37564で空を飛べ!


…えー、もちろん私は現実では理性と常識と礼儀を重んじ、フィクションをフィクションとして楽しんでいるだけなのでご安心下さい。ご安心と言っても、何を安心するのかは知りませんが。


わけが分からなくなったので話を戻すと神田森莉氏のサイトでは無料で氏のマンガを公開している。そのタイトルもズバリ「37564ひめゆりの島」である。
内容がやばすぎて掲載を断られたらしいが、なるほど、これは無理である。良識ある出版社ならばこれを受け取るわけにはいかないだろう。
猟奇的かつ差別的。悪趣味かつ悲劇的。見れば後悔すること間違いなしである。
こんな楽しいものは是非とも見ないことを心の底からお勧めしたい。
これは私のような「差別と悪書のある明るい世界」が好きな低俗な人間だけが読めばいい漫画である。


ところで、このひめゆりマンガを見て思い出したのが昔修学旅行で沖縄に行った時のことである。
私たちはお決まりのコースとして今も残る戦争の爪あとなんかを色々と見て回ったものである。実際に当時の沖縄の方々が生活をしていた洞くつなんて背筋の凍るような雰囲気を持っており、いつもは悪ふざけばかりする連中でさえ神妙になっていたりした。
ところがである。最後に実際にひめゆりの学生として従軍した経験を持つ女性が体験談を語って下さったのであるが、この話が驚くほどつまらなかったのである。いびきをかいて眠る者まで出る始末である。


時々「深刻な戦争体験を語っているのにまじめに聞かない若い人が増えている」と嘆く人がいるが、あれは話し手の語りがつまらないだけなのではないだろうか。
確かに原爆にあった、硫黄島で生死の境をさまよった、ひめゆりの学生として従軍したというのは、強烈な体験である。悲しむべきことであり、同情してしまうことであり、義憤にかられる事実である。
しかし世間にはその強烈な体験からさらに選りすぐった物語が流布しているのである。


全身が焼けただれて行進するゾンビのような被災者の列。

蒸発して岩に影の焼き付いた人間の跡。

ラバウル島で片腕をなくした水木しげるさんの体験談。

白い旗を降りながらアメリカ軍に投降する少女。

「自分は皇軍の女だ」と叫びながらアメリカ兵に手ぶらで突っ込んで行って、眉間に銃弾を打ち込まれて即死したひめゆりの女生徒。

まさに特選である。そんな話に慣れてしまった私たちにとって「ただの体験者」の話は刺激があまりにも弱すぎるのである。
現場を見てきたことや、実際に体験したことは万能ではないと私は思い知らされた。


「戦争体験者の話を(面白い)か(面白くない)かで優劣をつけるとは何事だ!」
と言う方もいるだろう。もっともである。
悲劇に優劣はない。
日本人も朝鮮人も中国人もユダヤ人もアメリカ人もヨーロッパ人も、ロシア人も皆多きな犠牲を払った。
彼らの不幸に上下をつけることはできない。

しかし自分の体験を人に話して聞かせるとなれば、話は別である。
いったい人の心に響かない話に何の価値があるのだろうか?しょせん個人の経験は個人のものでしかない。その話をあえて他人に語り、そこから何か教訓を感じて欲しいと願うならば面白い話をしなくては意味がないのである。そうでなくては自分語りはただの自己満足になってしまう。
(もちろんつまらない話にも歴史資料としての記録という価値はあるかもしれない。)

喜劇と悲劇は同じものなのである。人を喜ばすことのできない話には人を悲しませる力もないのだ。
心に届くという意味では、その女性が語って下さった体験談より「37564ひめゆりの島」の方がはるかに強力なのである。
ただし「37564ひめゆりの島」から読み取れる「教訓」なんてものは特にないのではあるが、それもまたよしである。