玄文講

日記

安藤 慈朗 「しおんの王」

2004-11-28 21:02:21 | 
今日、「しおんの王」というマンガを読んだ。
電車の清掃のバイトをしている研究室の同僚が落ちていたそれを拾ってきてくれたのである。

その内容は両親を惨殺されたショックで失語症になってしまった少女が将棋の世界で活躍するというものであった。

だが私は1つのことが気になって、まったく話にのめり込めなかった。
主人公は口がきけないので筆談で会話をするのだが、これがひどく不自然なのである。

筆談の流れが早すぎるのだ。

たとえば誰かが主人公に話しかけたとする。
すると次のコマ、ひどいときは同じコマ内で既に主人公はノートにその返事を書いているのである。

もし実際に筆談で会話をすれば、相手の質問のあとに文字を書く時間だけ間があくはずである。
たとえば唐沢なをき氏の「カスミ伝」というギャグマンガに、雪山で大きな音を出すとなだれが起きてしまうので全ての会話を筆談でするというものがある。
そこでは本来スピード感あふれるべき敵忍者との戦いの間も、いちいち戦いを中断して筆談で会話をするのである。
そういう会話の不自然さがギャグになっていたのだが、このマンガではそんな「会話の不自然さ」がないという不自然が生じていた。

相手の質問に対して、いちいち紙に文字を書いて答えることで、不自然な間があき会話の流れが中断する。
正常な会話が成り立たない。
人間社会の交流において大きなハンディを背負っている。
そういった悲劇性を描写して、はじめて主人公が失語症になってしまった悲しさもいじらしさも表現できるはすである。

失語症になったのに会話が普通に流れる。
これでは何となくトラウマっぽい設定をつけてみただけでしかなく、同情をひく便利な道具として障害を利用しているだけである。
つまり悲劇の安売りである。

こんなのはささいな欠点なのかもしれないが、マンガでも映画でも一度小さな矛盾が気になるとそのせいでストーリーを楽しめなくなるというのはよくあることである。