玄文講

日記

小塩隆士 「教育を経済学で考える」

2004-11-27 21:34:24 | 
「教育を経済学で考える」と言うと、大学を出た方が給料が良くなるという「投資」としての側面ばかり論じられがちである。

しかし例えば私たち院生は1000万円近くの借金をして、しかも世間的には役立たずとして敬遠され薄給にしかありつけない「理論物理学の博士」になろうとしている。
「投資」としては私たちは完全に大失敗である。

だがそこでこの本の著者は言うのである。
教育には「消費」という一面がある。将来の損得を抜きにして楽しみのために学ぶ人もいるはずだ。「手段」としての教育ではなく、「目的」としての教育もあるはずだと主張するのだ。
それこそまさに救いがたき大馬鹿者である私たちのことではないか!

この本は多彩な例を挙げて、経済学がいかに現実に生きている人間の行動を説明できるかということを教えてくれる良書であった。
つまらないイデオロギー論争ばかりしている凡百の教育書の無力さと比べて、この本の明快さは痛快であった。

特に「生きる力」を与えるという教育目標の無内容さを批判した言葉、

真っ向から批判できないもの(たとえば「平和」とか「民主主義」)ほどイデオロギーの手垢にまみれたり、立場によってコロコロ内容が変わったりすることを私たちはよく知っている。

には拍手を送りたい気持ちである。

それにしても、この本は誤解されやすい本である。
教育の神聖さも能力重視のエリート主義も批判するこの本には読む前から様々な偏見が与えられるからである。
たとえば典型的な批判としてamazonの書評から2つばかりを拾ってみたいと思う。

(批判1)
「経済学は金銭的な損得を問うだけの学問なのだろうか?」

なんですと?この人は本当にこの本を読んだのであろうか?経済学は金銭的な損得を問うだけの学問ではないことをこの本の著者は最初に主張していたではないか。

経済学はお金儲けを考える学問ではない。
一定の制約の下で自分の効用(満足度)を最大にするという、人々の多様な行動を幅広く分析するというのが経済学の基本的な発想だからである。

(P6より引用、、、って この人はこんな冒頭部分さえ読んでいないのだろうか?)

(批判2)
「教育は不公平と格差を生むとして批判的に展開している点は、平等主義的思い入れが強すぎて論理が甘い気がする。 」

著者は別に平等主義的思い入れが強い人間ではない。むしろ結果の平等を目指すことを批判している。
少なくとも私は

教育内容を切り下げて、能力格差を目立たせないようにすることは、はたして望ましい解決策といえるのだろうか。
筆者は、基本的には能力別クラス編成に賛成する。


と言える人間を「平等主義的思い入れが強い人間」とみなすことはできない。

著者の指摘する問題はエリートの育成ばかりを大事にする現在の教育制度であり、秀才とバカの格差が物凄い勢いで(しかも半ば教育制度の欠陥のせいで)ひらいていることである。
もちろんエリートを育て、彼らに凡人とは別格の待遇を与えることは大事である。日本のエリートは冷遇されすぎている。しかしエリートを育て尊重することは教育の目的ではない。
教育の目的とは平凡への強制である。
詳しくはここで紹介した「吉外につける薬」の引用を見ていただきたい。

つまり凡人を社会で生きていける人間にすることが教育の目的であり、エリートの育成は別の専門機関でも設ければいい。

秀才の子供は秀才になり、バカの子供はバカになるという、現在確かに存在しているこの悪循環を断ち切るためには、できるだけ教育の機会を平等にするように努力しないといけないのである。

それではエリートは生まれないという人もいるかもしれないが、エリートほど秀才の親や豊かな資産を使って既存の教育機関に頼らずとも自力で伸びていけることを忘れてはいけない。
公共施設が自助能力のない人のために存在するように、教育機関も自分で勉強できず、親からの教育も期待できない凡人たちを主眼に置くべきである。
つまりそれは平等で公平な教育、勉強嫌いな子供達を縛り付けて強制的に学習させるシステムなのである。

(その他の書評)
http://www8.plala.or.jp/tadasis/page087.html

http://cruel.org/asahireview/asahireviews05.html#eduecon