玄文講

日記

老獪なる聖女、マザーテレサ

2004-11-09 20:49:22 | 怪しい話
マザーテレサさんが「福者」に列せられた。これはつまりあの奇跡調査委員会が彼女の奇跡を認めたということである。
これは2つの意味で驚くべきことである。

まず1つは彼女は決して原理主義的キリスト教徒から見れば好ましい存在でなかったからだ。
キリスト教の仕事はボランティア活動ではない。彼らの仕事は多くの迷える者の魂を「真理の愛」に目覚めさせ、一人でも多くの人々を天国の戸籍係に斡旋(あっせん)することにある。奇跡を示すのも貧しき者を救うのも、天国に勧誘するための道具でしかない。たとえるなら、それは新聞勧誘員が持ってくる洗剤やビール券のようなものだ。
だから大事な営業活動を放り出して、キリスト教への帰依も求めず、異教徒の世話ばかりしている彼女は落ちこぼれ社員にすぎない。怒られこそすれ「社長賞」を貰えるような立場にはないのである。

もう1つは認定されるまでの期間がわずか6年しかかからなかったことである。

早すぎるのだ。厳格で十数年という長期にわたる調査を旨とする委員会にしては6年という期間は短すぎる。
委員会は調査対象の全人生、全記録を調べるのである。あれだけ広範囲に活動し、マスメディアに頻繁に姿を見せた彼女の記録をたった6年で全て検証したのだろうか?
確かに生前から彼女の人格は世界中の人間から絶賛され続けていた。だから今さら彼女がキリスト者にふさわしいかどうか調査する必要はないかもしれない。
しかし福者を指名するのに間違いは許されないのだ。その資格のない人間を誤って認定すれば、それは神の家を汚すことになる。だからこそ彼らはその信仰心にかけて徹底的な調査をするのである。世間で少し評判がいいとかその程度のことで目を曇らせるような彼らではないのである。

それに奇跡の内容もお粗末だ。インド人女性の胃の腫瘍を回復させた?取ってつけたような理由だ。
今回の奇跡はそのインド人女性が「彼女に祈ったら病が治った」と自己申告しているだけである。別にマザーテレサがそのインド人に手をかざして「神の御名の下に、治りたまえ!」と言ったわけではないのだ。これは奇跡を捏造したい誰かが思い込みの強い人間を一人選んできたように思えてならない。もちろんこれは何の証拠もない私の偏見であるのだが。

だがどうしても私は彼女が奇跡を起こしたとは信じられないのだ。何故なら彼女ほど奇跡という言葉が似合わない人はいないからだ。
彼女は奇跡に頼るような人ではなかったはずなのだ。
彼女の仕事は病人を治すことではなく、彼らに安らかな死を与えることだったのだから。
彼女にとって神は自分達を静かに見守る光であり、困ったときに超常の力で助けてくれる便利な道具ではないのだ。
神様はドラえもんではない。

この急な決定はおそらく現法王であらせられるヨハネ・パウロ2世様のお迎えが近いことと何らかの関わりがあるのだろう。

もちろん彼女が奇跡を起こしたか否かは彼女の価値に何の関係もない。
むしろ彼女の価値は神の力を借りずに、その二本の腕のみでインド人の最下層民たちを囲んだことにある。
彼女が救ったのはただの貧乏人ではない。地獄に落ちるべき異教徒どもなのである。
正しい聖人ならばその邪教徒どもに奇跡を示し、病を治し、キリスト者に改心させることだろう。しかし彼女はそんなことをせず、ただ瀕死の彼らをその腕に抱き、愛し、地獄へと安らかに旅立てるように祈ったのである。
彼女に奇跡は必要ないのだ。

それに彼女を賞賛する人々も、彼女の奇跡ではなく、彼女自身の行為を賞賛しているのは明らかなことである。

ところで私は彼女に関して書かれた本を何冊か読んだが、彼女はわずかな汚点さえも見つからないまったくもって完璧な善人に描かれていた。それはまったくもって正しいと私も思う。
しかしボランティアとはいえマザーテレサはあれだけの規模の組織を管理、運営する人間である。
純粋で素朴で敬虔(けいけん)なだけではやっていけない。彼女はかなり老獪(ろうかい)な婆さんであると見て間違いない。

彼女はテレビのインタビューで「カメラマンに付きまとわれるのは迷惑ではないのですか?」という質問に対して

「とんでもない。カメラのフラッシュがたかれるたびに、私の仕事にお金が入るのですから」

とさらりと言ってのける『たま』である。善良なだけの人間にできることではない。けなしているのではない。大絶賛しているのである。
もし彼女が存命ならば今回の騒ぎを利用してまた一儲けしてくれたに違いない。本当に彼女は素晴らしい女性であります。

彼女に名誉は必要ないが、彼女の仕事に名誉は必要だった。だから彼女はノーベル平和賞を受け取った。

彼女に権力は必要ないが、彼女は人のいいだけの権力者を利用する術は心得ていた。そう、たとえばダイアナ元王妃とかを。

そして彼女に奇跡は必要ないが、彼女ならば「福者」の権威が「異教徒を救うことに反発する原理主義的キリスト教徒」を説得するのにどれだけ便利なものであるかを理解できるに違いない。しかしその彼女はもういない。
もしキリスト教徒の誰かが「福者マザーテレサ」の権威をもってヒンズー教徒を改心させようとしたならば、ヒンズー教徒たちは誰一人として救われなくなるだろう。

なぜなら彼らが欲っしているのは奇跡でもなければ、天国へ連行されることでもなく、笑顔で自分達を地獄へ送ってくれる温かい腕なのだから。